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襲撃から一夜明け、オクタウィウス公爵邸の空気は凍てつくような緊張感に包まれていた。
焼け落ちた馬車の残骸が回収されて中庭に運び込まれ、その無惨な姿が、平和な王都の裏側に潜む「牙」を無言で証明している。
「……信じられん。王都のど真ん中で、公爵家の馬車が襲われるとは」
父コルネリウスは、書斎の机を拳で叩きつけた。その顔は怒りで赤黒く染まっている。当然だ。これは我が家への宣戦布告に等しい。
けれど私は冷静だった。コーヒーに角砂糖を五つ、ゆっくりと沈めながら父を見上げた。
「お父様。アウルス殿下や陛下は、この件について『暴徒の仕業』として処理しようとなさるでしょう。バルバリス帝国の影を認めれば、即座に開戦の準備を迫られますから」
「……わかっている。だが、このまま黙っているわけにはいかん」
「ええ。ですから、提案がありますの」
私はティーカップを置き、事前に用意していた地図を広げた。
我がオクタウィウス家の直轄領――王国の北方に位置する「*アルゲントゥム」。
銀山を擁し、堅牢な城塞都市を持つその土地は、隣国バルバリス帝国との国境に最も近い、防衛の要石だ。
「私、しばらく領地へ戻りますわ。王都にいても、あのアウルス殿下の嫌がらせと、得体の知れない暗殺者に怯えるだけですもの。……それより、自領を固め、来るべき『嵐』に備えるべきだと判断いたしました」
「領地だと? だが、あそこは冬が近く、環境も厳しい。まだ経験のないお前が行っても苦労するだけだ……」
「お父様。私は、ただ避暑に行くのではありません。領地の軍制を刷新し、銀山の採掘効率を上げ、新しい『産業』を興します。……そして、ウェスペリウスには、私の直属軍を組織してもらいますわ。お父様だって、軍備の拡大は歓迎でしょう?」
「維持費さえ、気にならねばな」
部屋の隅に控えていたウェスペリウスが、静かに頭を下げた。
彼の瞳には迷いはない。昨夜の誓いを経て、彼はすでに私の「剣」としての役割を完全に受け入れていた。
「クィンティリア……。本当に、あの大人しかった娘と同じ者か? あまりに……突然すぎる」
父の困惑した問いに、私は最高の令嬢スマイルで返した。
「ええ。ただ、少しだけ『将来の見通し』が良くなっただけですわ、お父様」
────
旅の準備が進む中、私は束の間の休息を求めてサンルームへと足を運んだ。
そこには、昨夜の戦闘で傷ついた甲冑を脱ぎ、軽装のチュニック姿で剣の手入れをするウェスペリウスの姿があった。
陽光を浴びる彼の横顔は、彫刻のように整っている。
「ウェスペリウス。少し休んだら?」
「……クィンティリア様。いえ、私のことはお気になさらず。貴女を安全なアルゲントゥムまでお連れするまで、一刻も無駄にはできません」
「硬いわね、相変わらず」
私は彼の隣に座り、強引にその手から手入れ用の布を奪い取った。
彼は驚いたように私を見たが、私は構わず、彼の手のひらに残る小さな切り傷に手を重ねた。
「……昨夜、私を助けてくれた時のこと。覚えているわ。あんなに熱いあなたの腕、初めてだった」
ウェスペリウスの喉仏が大きく動いた。
彼は視線を彷徨わせた後、観念したように吐息を漏らす。
「……不敬を承知で申し上げれば。あの瞬間、私は貴女を失う恐怖で、頭がどうにかなりそうでした。騎士としての使命感などではない。ただ、クィンティリアという女性が、この世界から消えることを許せなかった」
彼は震える手で、私の頬に触れた。
指先は硬く剣士の手。けれど、その感触はこの上なく愛おしい。
「私は……貴女にとって、ただの便利な道具で構わないと思っていました。借金を返してもらい、妹を救ってもらった。その恩を返すためだけに、命を捨てるつもりでした。ですが……」
「ですが?」
「……今は違います。貴女に生きていてほしい。そして、その隣で、貴女が作り上げる新しい世界を見ていたい。……これは、欲というものでしょうか」
氷の騎士が初めて見せた「人間らしい渇望」。
私は彼をさらに追い詰めるように、その耳元に顔を寄せた。
「欲で結構よ。私も、あなたをただの護衛だなんて思っていないわ。……アルゲントゥムに着いたら、覚悟して。あなたは私の軍の総帥になるけれど、同時に、私の『唯一の理解者』としても、たっぷり働いてもらうんだから」
ウェスペリウスは顔を真っ赤に染めながらも、逃げることなく私の目を見つめ返した。
その視線の熱さに、今度は私の方が気圧されそうになる。
「……仰せのままに。私の心臓は、すでに貴女の檻の中にありますから」
(……ああ、もう! この人、無自覚に殺し文句を言うんだから!)
前世の私の叫びが限界突破で歓喜の悲鳴を上げている。
けれど甘い時間はそこまでだった。
「クィンティリア様! 出発の準備が整いました。……それと、王宮から『使者』が到着しております」
侍女ドゥルシッラの緊迫した声。
私はウェスペリウスから離れ、冷徹な公爵令嬢の顔に戻った。
────
玄関ホールにいたのは、アウルス王子の側近の一人――ルキウスという、軽薄な笑みが張り付いた小太りの男だった。
彼は私を見ると、仰々しく一礼した。
「クィンティリア様。昨夜は災難でしたな。アウルス殿下も大変心を痛めておられ、特別にフルウィア様から『お見舞い』の品を預かって参りました」
彼が差し出したのは、一本の美しい香水瓶。
中には、毒々しいほどに鮮やかなピンク色の液体が入っている。
「フルウィア様が、『これまでの無礼を水に流し、姉妹のように仲良くしたい』と。……殿下も、これを受け取れば昨夜の反抗的な態度は不問に付す、と仰せです」
周囲の侍女たちが、その「和解の証」に安堵の表情を浮かべる。
けれど、私はその香水瓶を一目見ただけで、その正体を見抜いていた。
(……『忘却の滴』。これ、原作でフルウィアが邪魔な人間を廃人にするために使っていた禁忌のポーションじゃない)
香水として肌につければ、次第に思考能力を奪い、人形のように従順な性格に変えてしまう薬。アウルスは、私を「便利な操り人形」として手元に置いておくつもりらしい。
「まあ、殿下とフルウィア様の温かいお心遣い、痛み入りますわ」
私は微笑みながら香水瓶を受け取った。
ルキウスが「しめしめ」という顔をする。
「では、早速その香りを……」
「ええ、もちろん。ですが、これほど素晴らしい品、私一人で楽しむのは勿体ないわ。……ウェスペリウス、この瓶を持って」
私はウェスペリウスに瓶を渡し、ルキウスに一歩近づいた。
「ルキウス殿。あなた、最近少しお疲れのようね。顔色が悪くていらっしゃるわ。……この素晴らしい香りで、リフレッシュされるといいわ」
「え? あ、いや、私は……」
私が瓶の栓を開け、彼の鼻先に持っていこうとすると、ルキウスは目に見えて狼狽し、後ずさりした。
「な、何を! それは殿下が貴女様に……!」
「あら、和解の印でしょう? それを私が誰に分け与えようと、私の勝手ではありませんか。……それとも、この中身。私が使うと『不都合なこと』でもあるのかしら?」
私の声から温度が消える。
ウェスペリウスが、無言でルキウスの背後に回り込み逃げ道を塞いだ。
「さあ、飲みなさい。……いえ、嗅ぎなさい。フルウィア様の真心を、その身で受け取るのよ」
「ひっ……ひいいっ!」
ルキウスは脱兎のごとく逃げ出した。しかし私はルキウスの後頭部目掛けて投げつけ、中身がルキウスにかかった。
転げるように馬車に飛び乗り、王宮へと去っていく。
残された香水瓶を、私は踏みつけた。
ガシャン、と砕け散るガラス。
不快な甘い香りが周囲に漂うが、すぐ飛散していった。
「……底が知れんませんね、あの者たちは」
ウェスペリウスが嫌悪感を露わにする。
「ええ。でもこれで、はっきりしたわ。彼らにとって、私はもう『排除すべき敵』。……ならばこちらも、徹底的にやるまでよ」
私は振り返り、集まった領地派遣部隊に命じた。
「出発よ! 目的地はアルゲントゥム。……一年後、この国で最も豊かなのは王都ではなく、私たちの領地であることを世界に知らしめてやるわ!」
────
数日後。
私たちは王都を離れ、険しい北方の山道を越えていた。
馬車の中で、私は前世の記憶から「ある計画」を書き出していた。
硝石の人工生産: 火薬の原料。この世界にはまだ「銃」という概念が乏しいが、魔力と科学を組み合わせれば、最強の遠距離武器になる。
輪作とジャガイモの普及: 厳しい冬を越えるための食料革命。
魔法銀の精錬効率化: 銀山の深層にある魔力を帯びた銀を、現代の冶金学で精製し、ウェスペリウスの軍の装備を強化する。
隣で地図を眺めていたウェスペリウスが、私の手元を覗き込んできた。
「……クィンティリア様。先ほどから書かれているその『化学式』というもの、私には魔法の呪文よりも難解に見えます。ですが……」
彼は私の手を優しく取り、その指先にキスをした。
「貴女が描く未来が、どんなに奇妙で、どんなに険しくても。私はその先にある光を信じています」
窓の外には、壮大なアルゲントゥムの山々が見えてきた。
雪を戴くその山嶺は、これから始まる私たちの「反撃」の舞台。
待っていなさい、アウルス。フルウィア。
そして闇に潜む謎の協力者。
私はこの領地を、あなたたちが決して触れることのできない「難攻不落の理想郷」に変えてみせる。
愛する騎士と私が守るべき民のために。




