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鋭い金属音が夜の静寂を切り裂いた。
急停止した馬車の衝撃で、私は座席から投げ出されそうになる。それを支えたのは、鋼のような強さと、羽毛のような優しさを兼ね備えたウェスペリウスの腕だった。
「クィンティリア様、お怪我は!?」
「私は大丈夫。……何が起きたの?」
彼の問いに答えながら、私は窓の外を凝視した。
王宮から公爵邸へと続く並木道。本来なら街灯が規則正しく並び、平和な夜を照らしているはずのその場所は、今や濃密な「殺気」に包まれている。
外からは御者の短い悲鳴と、馬のいななき。そして、石畳を叩く重い靴音が複数。
(……早すぎる。こんなはずじゃないわ)
前世の知識を高速で検索する。
原作小説において、隣国バルバリス帝国の精鋭暗殺部隊が王都に潜入するのは、アウルスとフルウィアの結婚式の夜だったはずだ。
けれど今、目の前で展開されている事態は、明らかに組織化された襲撃だ。
「……クィンティリア様、座席の下へ。一歩も動かないでください」
ウェスペリウスの声から温度が消えた。
彼が腰の剣を抜くと、狭い馬車の中に研ぎ澄まされた銀の光が満ちる。彼が「氷の騎士」と呼ばれる所以は、その冷静沈着な性格だけではない。戦場に立つ彼の魔力が、周囲の温度を物理的に奪うからだ。
「ウェスペリウス、気をつけて。相手はただの暴漢じゃないわ。……バルバリスの『影』よ」
私の言葉に、ウェスペリウスの眉が微かに動いた。なぜ私がそんなことを知っているのか、という疑問。けれど彼はそれを飲み込み、短く「御意」とだけ答えて馬車の扉を蹴破った。
────
馬車の外は、地獄の入り口のようだった。
漆黒の装束に身を包んだ男たちが、六人。彼らは特殊な魔術で姿を晦ませる不可視化を使っているが、ウェスペリウスの放つ冷気によって、その輪郭が霜のように浮き彫りになっている。
「抜かせぬと言ったはずだ」
ウェスペリウスの剣が、月光を反射して弧を描いた。
最初の一人が、声を上げる間もなく崩れ落ちる。
速い。
原作の描写でも「一騎当千」とは書かれていたが、目の前で繰り広げられる剣戟は、もはや芸術の域に達していた。
暗殺者たちは、連携の取れた動きでウェスペリウスを包囲しようとする。
一人が投擲した毒ナイフを、念動魔法で弾き飛ばし、その軌道のまま二人目の喉を切り裂く。
けれど、敵のリーダー格と思われる男――カエソニウスが、不敵な笑みを浮かべて呪文を唱えた。
「消え失せろ――!」
地面から黒い霧が噴き出し、ウェスペリウスの足元を絡め取る。
地獄の拘束。バルバリス帝国特有の闇法術だ。
ウェスペリウスの動きが一瞬、鈍る。その隙を逃さず、残りの三人が一斉に私たちが乗る馬車へと躍りかかった。
「クィンティリア様!!」
「私なら大丈夫! 自分の守りを固めて!」
私は叫びながら、ドレスの隠しポケットに忍ばせていた「あるもの」を掴んだ。
それは、公爵家に代々伝わる魔石に、私が昨夜、前世の知識を応用して手を加えた「自作の魔導具」だ。
前世の小説知識……というほど大層なものではないが、特定の波長の魔力を干渉させれば、闇の法術は霧散する。その理論を、私はこの世界の魔術体系に当てはめて構築していた。
「散りなさい!」
私が馬車の窓から魔石を適当にばら撒いて放り投げると、まばゆいばかりの純白の閃光が炸裂した。
「光学的干渉による魔法解体」――。
拘束は霧のように消え、目を焼かれた暗殺者たちが悲鳴を上げて後退する。
「な……何だと!? 公爵令嬢がこれほどの術を!?」
カエソニウスが驚愕に目を見開く。
その隙を、我が最推しの騎士が見逃すはずがない。
「逃がさん!」
拘束を解かれたウェスペリウスが、爆発的な踏み込みを見せた。
彼の剣が青白く発光し、大気を凍らせながら一閃する。
「氷晶一閃――アウレリウス」。
カエソニウスの胸元を深く切り裂き、その体は氷の像と化して砕け散った。
────
リーダーを失った残りの暗殺者たちは、撤退を選択した。
けれど彼らは去り際に、馬車に向かって火炎瓶を投げ込んだ。
「――っ! 火が!」
一瞬にして、豪華な馬車が火だるまになる。
燃え上がるカーテン、爆ぜる木材。
私は煙に巻かれ、出口を見失いそうになった。
「クィンティリア様!」
炎の壁を突き破って、銀の甲冑が飛び込んできた。
ウェスペリウスだ。
彼は迷うことなく私の腰を抱き寄せ、もう片方の腕を私の膝の裏に通した。
視界がふわりと浮き上がる。
いわゆる、お姫様抱っこ。
「失礼いたします……舌を噛まないように!」
「え、あ……!」
彼が強く地面を蹴った瞬間、私たちは燃える馬車から脱出した。
夜風が熱を奪っていく。
着地した場所は、少し離れた街路樹の陰。
彼は私を降ろすことなく、周囲を警戒しながらさらに奥へと移動した。
「……もう、大丈夫です。追っ手は来ません」
ようやく安全な場所で足を止めると、彼はゆっくりと私を地面に降ろした。
けれど、彼の腕はまだ私の肩を抱くように添えられたままだ。
月明かりの下。
激しい戦闘の後で、彼の呼吸は少しだけ乱れている。
頬には一筋の返り血がつき、銀色の甲冑は煤で汚れていた。
けれど、その瞳は……かつてないほどに熱く、激しく私を射抜いていた。
「……クィンティリア様。貴女は一体、何者なのですか?」
彼の声は震えていた。
それは恐怖ではなく、圧倒された者の震え。
「あの状況で、あのような高等な術を……。それに、バルバリスの影を知っていた。貴女はただの公爵令嬢ではない。私が守るべき、弱き存在ではない……そう思わせるほどの輝きを感じてしまいました」
私は言葉を詰まらせた。
正体を明かすわけにはいかない。けれど、嘘をつくのも嫌だった。
「ウェスペリウス……。私は、あなたに生きていてほしいだけなの。そのために、できる限りの準備をしてきた。……引いたかしら? 可愛げのない、策士のような女だと思った?」
私が自嘲気味に微笑むと、彼は不意に私の両手を握りしめた。
その掌は、驚くほど熱かった。
「……いいえ。誇らしく、そして恐ろしく思いました。貴女という女性が、私のような者にこれほどの情熱を注いでくださる。その重みに、私の魂が焼き切れてしまいそうだ」
彼はそのまま、私の額に自分の額をそっと重ねた。
冷たい鉄の兜の感触と、彼の熱い肌の対比。
「クィンティリア様。私は決めました。例え貴女が神の使いであっても、あるいは魔女であったとしても、私は構わない。……貴女のその知性を、勇気を、私は命を賭して守り抜く。今、この瞬間に、誓いを新たにさせてください」
ウェスペリウスの言葉が、私の胸に深く突き刺さる。
原作での彼は、最後まで誰にも理解されず、孤独な忠義の中で死んでいった。
けれど今、彼は自分の意志で私という存在を丸ごと受け入れようとしている。
「……ありがとう、ウェスペリウス。でも、勘違いしないでね」
私は彼を見上げ、悪戯っぽく、けれど最高に優しく微笑んだ。
「私があなたに守られるだけだと思ったら大間違いよ。私たちは、二人で一人。あなたが私の盾なら、私はあなたの矛になる。……いいわね?」
ウェスペリウスは呆然とした後、堪えきれないように低く笑った。
「……仰せのままに、我が主。貴女には、到底敵いそうにありません」
────
その頃。
燃え落ちる馬車を遠くから見つめる、一人の影があった。
王宮の塔の影に潜むその人物は、手元の水晶玉を握りつぶし、不快そうに舌を鳴らす。
「……クィンティリア・オクタウィウス。予想外の変数だな。あの『氷の騎士』がこれほど早く覚醒するとは」
その声の主は、アウルス王子でも、フルウィアでもなかった。
前世の知識にも存在しない、物語の「裏側」を操る存在。
「だが、運命は変わらない。バルバリスの王が動く時、この国は公爵家もろとも灰になるのだから。」
夜の帳が、さらに深く王都を覆い尽くしていく。
私たちが勝ち取った小さな勝利は、これから始まる巨大な嵐の、ほんの序章に過ぎなかったのかもしれない。




