第25話 エルフのピンチ
魔物というのは魔族領域だけではなく、どこにでも出るものらしい。日本の田舎で言えば、猪や熊、ものによってはカラスを見かけるような頻度で遭遇したり、見かけたりする。
好戦的なやつもいれば、臆病なやつもいる。だが魔物とひとくくりにして呼ばれるようになるには、過去それなりに人間や魔族にとって害を与えてきた存在という証でもある。
そういう輩に、俺たちは追われていた。
「もう少しで拠点なのに……!」
ルイゼルが吐き捨てる。俺はその背を押して、シルフの力で疾風の刃を後方へと飛ばした。
不可視の刃だ。しかも目標に向かって高速で疾ぶ。
森の植物を鋭く斬り飛ばしながらその魔物へと迫った刃は、しかし命中の直前で空を切った。跳躍して避けたんだ。見えていないはずの刃を。
高く跳んだそいつは樹木の幹を蹴り、上空から飛来する。
「なんでこんなところにガルムがいるのよお!」
巨狼ガルム。赤黒い毛並みをした狼だ。
「ルイゼル、頭を下げろ!」
間に合わない。そう判断した俺は、彼女の後頭部を掌で一気に押し下げる。ルイゼルが飛び込み前転のような体勢で転がった。
「~~っ」
血の臭いを漂わせながら、やつは俺たちの頭部のあった空間を鋭い牙で食い破って、四肢で激しく地面を掻く。
頭を下げるのが一瞬でも遅れていたら、俺たちの首はやつの口の中だ。実際にそうやって獲物を何十何百と狩り続けてきたのだろう。その毛並みは、獲物の乾いた血液で束になっている。だから赤黒く見えるのだろう。
「後ろです!」
転がったルイゼルが、地面に両手をあてながら叫んだ。
振り返った俺の眼前には、ガルムに勝るとも劣らない銀色の巨狼の大口があった。
「うわっ!?」
まさに俺の頭を食いちぎらんとした直前、ルイゼルの魔法で地面が盛り上がり、壁となって激突する。
凄まじい激突音がして、たったの一撃で土の壁が粉砕された。だがその一瞬で、俺たちは側方へと逃れ、背中合わせとなる。
銀狼フェンリル。ルイゼルは先ほどこの狼をそう呼んでいた。
「挟まれちゃいましたね」
「こりゃまずそうだぁ~……」
ガルムとフェンリル。拠点まで残り数キロといったところまできて、俺たちは二体の巨狼に追われていた。
俺は何度も疾風の刃を放つ。やつらはその不可視の刃を、まるで見えているかの如く正確に躱す。疾風の刃は空を切り、樹木を伐採するばかりだ。
いざとなれば切り札の恒星魔法を使おうと考えていたが、疾風の刃が命中しないような素早い獣に、恒星魔法を命中させることができるだろうか。それに、人類拠点の近くの森を灼いてしまっては、食料の供給に難が出る。
「実は水が苦手とかないかな?」
河を探して飛び込めば――という淡い期待は、ルイゼルの一言で砕かれた。
「猫じゃないんですから」
「だよなあ」
どっちかと言えば犬だ。だって狼だもん。
やつらは涎を垂らしながら、俺たちの周囲を油断なく歩いている。しかし恐ろしい。ヒグマサイズの狼がこれほどのものとは。
走って逃げようにも背中を見せた瞬間に追いつかれるだろうし、先ほどルイゼルが魔法で試してみたが、並大抵の火では恐れもしない。
ルイゼルがガルムと、俺はフェンリルと目を合わせている。逸らしたら最後、あっという間に襲いかかってくるだろう。
こんなやつらが普通にうろついている世界では、魔族のオーガなどかわいらしいものだったと、いまさらながらに理解した。
「よくいるの、あいつら?」
「ほとんど見ません。特に人の生息領域では食べ物の争奪戦になりますから」
「そんだけ人類減っちゃったってことか」
「もうすぐあと二名減りそうです」
「いや笑えんって」
しかし、進退窮まったな。
逃げるもダメ。戦っても魔法が命中しない。
何となくだが、魔法は「イメージ」「構え」「射出」の三段階に分かれてしまっているのが、命中しない原因のような気がしてきた。
案外、ぶん殴る武器でもあればどうにかなるのかもしれない。ただロックゴーレムほど鈍くはないため、拳を振り回したところでリーチが足りず、どうにもならないだろう。
「せめて槍や刀でもあればなあ」
「わお、サムラ~イ。ガドルヘイムでは刀ではなく剣ですよ」
「どっちでもいいよ」
ジャリとフェンリルの足下から音がした直後、俺はほとんど反射的にルイゼルを左手で押して、シルフの風を纏わせた右の拳をぶん回すように叩きつけていた。自分でも驚くほどの反応だ。
俺の拳がフェンリルの口蓋側面に突き刺さる――が。
「く……ッ」
全力で振り抜いたとき、フェンリルはその力を逃がすために自ら地を蹴って側方へと飛退った。まるで綿の塊でも殴ったかのように手応えがない。当然、シルフの追撃も空振りだ。
拳の一撃が通用したオークロードの方が、遙かにやりやすい。
ルイゼルが大地の槍をガルムへと放ちながら叫ぶ。
「魔法があたらない!」
「どうにもならんぞ、こりゃあ」
でも、いまの俺に他にやれることなんてない。
やつの再度の噛みつきをかいくぐりながら、カウンター気味に拳を放つ。
おそらく拳は躱されるだろう。だからシルフの追撃を遅らせて。
「んがぁ!」
あたった。直撃だ。いや、首を振ってまた力を逃がしたか。
フェンリルはシルフの追撃を横っ面に浴びてなお、平然と着地して踵を返し、間断なく今度はルイゼルへと飛びかかる。
ルイゼルが地面を迫り上げ防ぐも、その頭上を軽々と越えて今度はガルムが来襲した。俺は背後からルイゼルを引き倒して転がり、ガルムへと疾風の刃を放つ――が、やはり赤い巨狼はそれをあっさりと避けた。
すぐさま膝を立てた俺たちへと、土の壁を迂回してきたフェンリルが襲いかかる。とっさにルイゼルを突き飛ばして逃し、俺は跳躍したフェンリルの下をスライディングでくぐり抜けてやり過ごした。
「天ヶ――ッ」
ルイゼルの声が飛んだ。
ガルム――!
地を這うようにガルムが迫っていたんだ。
最初からこっちが本命だったか。
態勢の復帰が間に合わない。
「~~ッ」
逡巡の暇すらない。
だめだ。そう判断した瞬間、思考は切り替わる。
犠牲にするなら左腕。
左腕を食わせる。あえてガルムの口内へと突っ込んで、入ったところで食いちぎられる前に恒星を生み出し、ガルムを体内から灼き殺す。
それが真っ先に思いついた戦法だった。
おそらく、うまくいっても森は炎の被害を受けるだろうし、俺の左腕はなくなるだろう。それでも、ここまできてふたりして殺されるよりはマシだ。
「おおおおおおおっ!!」
ガルムの大口が迫った。スライディングを終えた体勢のまま俺は左手を開き、その大口の中へと自ら叩き込み――かけた瞬間だった。
ガルムの全身が、真っ二つに裂けたんだ。縦に。口蓋から尾まで、綺麗に裂けた。血液や内臓が俺の左右を通り過ぎて地面に落ちた。
「な――」
肉片と化したガルムの背後。
闇を塗りたくったような真っ黒な鎧の背中が、俺の眼前にあった。そいつは刀身まで黒い剣を一振りして、ガルムの血を払う。
それだけで疾風が巻き起こった。
「あ……え?」
フルフェイスの視線が振り返る。俺じゃない。俺の背後にまで迫っていたフェンリルに向けられたんだ。
フェンリルが四肢を止めた。そして毛を逆立て、弱々しくうなり、尾を丸める。
しばらくのにらみ合いの後、フェンリルは数歩後ずさると、骸となったガルムをその場に残して森の奥へと逃げていった。
ルイゼルがすぐさま俺の側へと駆け寄ってくる。
「天ヶ瀬さん!」
「だ、大丈夫。どうにか」
フルフェイスの視線が下がる。
俺と、そしてルイゼルへと向けられて。
俺は慌てて彼に話しかけた。
「あ、ありがとう。助かったよ。ほんとに。……えっと、拠点からのお迎え、かな?」
「……」
無言だ。そうか。日本語だったからか。
ガドルヘイム語で「ありがとう」は――。
言い直しかけたとき、あろうことかルイゼルは炎の魔法を黒騎士へと放った。
「ハアァァ!」
「……」
だが魔法は黒の剣であっさりと散らされる。
いくつもの炎の塊が地面に落ちたが、それらは枯れ葉に燃え移る前に消滅した。たぶん、ルイゼルが自ら消したのだろう。
俺は唖然とした。なぜ助けてくれた人を殺そうとするのか。
「よせ、ルイゼル! どうしたんだ?」
「だめです! 離れてください! こいつ、魔人です!」
「へ?」
「天ヶ瀬さんを殺しに来たの! わたしには魔力でわかるんですっ!」
「はあ?」
察しの悪い俺に苛立ったように、ルイゼルが叫ぶ。
「魔族の追っ手ッ!!」
「マゾ……え、うぞッ!?」
お、追いつかれちまったってのか。
俺の前に立ちはだかったルイゼルの肩をつかみ、その魔人はゴミでもどけるかのように彼女を払った。
それだけでルイゼルは勢いよく投げ出され、無残に地面に転がる。飽きられて投げられた人形のようにだ。恐ろしいほどの怪力。
「う、うう……」
ルイゼルが仰向けでうめく。
「ルイゼル!」
「逃げ……て……っ」
俺はゆっくりと立ち上がった。
身長は一回りほど魔人の方が高い。肩幅は鎧のせいで正確にはわからないが、比べるべくもなくやつが広い。
だが。
ああ。やりやがった。この野郎。
「俺の部下に手ぇ出しやがったな」
「……」
一瞬で頭が沸騰した。灼熱のような血が全身に回り、俺はやつを睨み上げる。
黒騎士はその視線を受けてなお、ヘルムを通してくぐもった声でつぶやいた。
「おまえが我々を滅ぼすという、伝説の勇者か」
それはぶっきらぼうではあったが、確かに日本語だった。




