⑥
私は隣で眠る帆乃花の頬を優しく撫でながら、あの夜を思い出していた。大学に入ってすぐの事だ。共通科目の授業で席が近かったケンイチから、
「ちょっとペンを貸してもらえないかな?」
と、声を掛けられた。私は気前よくボールペンを手渡す。
「ありがとう」
授業後、ケンイチは私に何度も御礼を言う。そして、そのままランチに誘われた。まだ友人がいなかった私にとって、それはとても嬉しい申し出であった。
「そうなんだ。隣の県ということは蛍は一人暮らしなんだ」
「うん…ケンイチは?」
私は学食のかつ丼を口に運んでいた。
「俺も一人暮らしだよ。やっぱり少し遠いからね」
「親の有難味が染み入るね!」
「そうだな…」
確かそんな話をしていたんだと思う。その日から私たちは行動を共にするようになる。最初のテストが終わり、ケンイチから飲みに誘われた。
「お疲れ!」
「お疲れ様!」
私たちは大学近くの居酒屋でテストからの解放感に酔いしれていた。私も久々の解放感に陽気になっていたことは認める。
「俺さ…恋人が2人いてさ…」
「ん?自慢かよ!」
ケンイチの言葉に私は笑いながら反応する。
「いや、まあ…昔からなんだ。フラれるのが怖いというか…一人になるのがさ…」
ケンイチは自分の前に置かれた箸置きを見つめながら少し寂しそうであった。
「そうか…まあ、ケンイチはなかなかイケメンだしな!それに寂しがり屋なのは感じていたよ」
私は笑いながら追加の料理を頼もうとメニューに視線を落とす。
「うん…実は…その…」
ケンイチの神妙な声に私は視線を上げる。
「なんだよ?」
「いや…」
私はメニューを置くと黙ってケンイチを見た。ケンイチもその視線に気が付いていたようであった。
「うん…恋人が一人増えそうでさ…」
「な、なんだよ!また自慢かよ!」
私は再び笑いながら店員を呼ぶ。
「え?告白されたとか?」
「ま、まあ…」
私は追加の注文をすると再びケンイチに視線を戻す。
「モテる男は辛いね!いや、幸せ者だ!」
「いや…どう思う?こんな俺…」
ケンイチの表情から、単に自慢話をしているようには聞こえなかった。
「い、いいんじゃねーの?ケンイチの好きにしたらいいじゃん?」
私の返答にケンイチは少し微笑む。
「ありがとうな…」
私達はそれから何を語らったか、あまり覚えていない。ただ、私は帰るのがめんどくさくなり、ケンイチの家で飲み直すことにしたのは覚えている。私はケンイチの部屋で語らい、新しい恋人になる女性について色々と聞いていた。
「なんだよ!可愛いじゃん!うわぁ、悪い奴だ…」
「いや、その…」
私は時にケンイチを誂いながらも2人の友情を楽しんだ。いつの間にか、私はその場で寝てしまった。
そして、夜中に目が覚めた。あたりを見渡し、ここがケンイチの部屋であることを確認する。煙草の匂いが部屋に入ってくるのを感じる。私は匂いの元を辿った。ベランダでケンイチが一人、煙草を嗜んでいることを発見する。なんてことはない。私は逆にケンイチに気を遣わせたかと、気になっていた。すると、ケンイチが部屋に入ってきた。私は思わず目を閉じて寝たふりをしてしまう。ケンイチの足音が近付いてきた。気配から私の近くにいることは何となくわかった。しかし、あまりに近い様に感じる。すると、先程までの煙草の匂いが不意に鼻を通った。その瞬間、私の頬に柔らかい感触がピタリと着くとすぐに離れた。私は自分の鼓動が大きくなるのを感じた。
「ごめん…」
ケンイチの呟く様な声が聞こえた。少し離れたところでベッドが軋む音が聞こえた。私は目を開けると3桁の足し算を暗算してみる。寝ぼけてはいない。ケンイチは私の頬に唇をつけた。そして、すぐに謝罪した。私は窓から顔を出す満月を静かに見上げていた。
ケンイチはあの満月の夜以降、不審な行動をとることはなかった。ケンイチは私が眠っていたと思っているはずだ。そしてあの謝罪…。私はケンイチから告白するまで、あの頬の感触を心の奥底に封印することにした。
私は帆乃花を起こさないようにベッドから降りると、冷蔵庫から麦茶の紙パックを取り出した。
『ケンイチは気付いていない…』
私はゆっくりと麦茶をコップに注ぐ。自分の立ち振る舞いが本当に正しいのか、たまにわからなくなる。友情と愛情…その境界線はどこにあるのか。自身の境界線を感じる。自信が持てない私には、冷えた麦茶がとても苦く感じた。
「蛍君?」
寝室の方から帆乃花の声が聞こえた。帆乃花が目を覚ましたらしい。
「ここだよ」
私は帆乃花の元へ向かう。帆乃花は美しい裸体を露わにしながら私を出迎える。
「もう!びっくりした…」
帆乃花が甘えてくる。私は帆乃花の隣に座る。そして、大切な伴侶を見つめる。
「帆乃花」
「ん?」
帆乃花は微笑みながら私の顔を見つめる。付き合う前には想像も出来なかった表情であった。他の者達が何と言おうと、私はこの表情を守り続ける。
「何?蛍君、どうしたの?」
私が黙ったままなので、帆乃花が声を掛けたのだ。
「え?いや、帆乃花は可愛いなって思ってね!」
帆乃花が少し頬を赤らめた。私が帆乃花を不安にさせなければ良いだけのこと。簡単だ。万が一のことがあっても、この前のように真正面から受け入れれば良いだけのことだ。何も恐れる事はない。いや、怖ろしいのは帆乃花が傷つくことである。
「んっ!?」
私は脳内で何かが繋がったような感覚に襲われた。
「どうしたの?さっきから少し変よ?」
帆乃花は首を傾けながら私を見つめる。
「いや、大丈夫だよ」
私は帆乃花が傷つくことを恐れた。帆乃花の痛みは自分の痛み。帆乃花が傷つくならば、私がその痛みを請け負いたい。本当にそう思っている。私はあの夜の父の行動が理解できた気がした。人間とは不思議なもので、その時は理解できなかった事も来るべき時が来れば自然と理解できたりするものなのだ。そのタイミングは突然訪れる場合が多い。私は少年時代に起きたとある事件を思い出していた。




