②
この日の事を決して忘れない。私は後輩のサキに、共通して受講している講義のノートを借りた。朝は苦手なのだ。サキは積極的に私の都合を聞いてくる。ノートを貸すので、先輩の家に行ってよいか。や、一緒に勉強しないか。と、言った具合だ。自分で言うのも恥ずかしいことなのだが、サキは私に気があるらしい。友人伝いにそんなことを聞いていた。しかし、私には帆乃花がいる。悪いがサキには諦めてもらうしかない。それを知っていながら、サキからノートを借りようとする私はどこか打算的で、今考えれば気味が悪い。
私はサキとコピー機がある購買店まで歩いていく。サキの話に合わせて笑顔も作っていたと思う。あくまで自分の単位の為だ。多少はしたたかにもなる。しかし、それが悪かった。私は視線を感じて振り返るが誰もいなかった。思えば、この時の光景を帆乃花に見られていたのだろう。最愛の恋人が見ず知らずの異性と笑顔で親密にしていれば、不安感や嫌悪感を持つ者は少なくないだろう。軽率な行動であった。
その日、私は帆乃花と一緒に帰る約束をしていたが、急用が出来たと断られてしまった。私は立ち止まる。補講があるとサキが愚痴を言っていたことを思い出したからだ。
『このまま帰るのは…何か嫌な予感がする…』
理由などまったくない。根拠を聞かれても困ってしまうのだが、私はある種の違和感を覚えた。
私は帆乃花を待つことにした。帆乃花に電話をするが出なかった。私は眉間にしわを寄せた。不意に廊下の窓から外を見た。帆乃花が中庭を歩いていたのを見つける。私はゾッとした。帆乃花の歩き方が明らかにいつもと違う。私は更に嫌なことに気が付く。帆乃花が向かっているのは、サキの補講教室がある校舎だったからだ。私は脳内で破綻している推論を必死で繋ぎ合わせていく。
『帆乃花の変貌、サキの補講、サキとの会話、帆乃花の都合が悪くなったとの連絡、ん?帆乃花の変貌?そういえば、サキからノートを借りた後に帆乃花から…ちょっと待て!サキの補講、帆乃花の変貌、友人伝えにサキが私に好意を持っていると聞いていたら…?』
私は頭のてっぺんを鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。私は駆け出していた。以前、一緒にテレビを見ていた時の話しだ。私が何気なく好きだと言った女優に、帆乃花は激しく嫉妬した。テレビでCMが流れていればチャンネルを変えるし、私の家にあるポスターは偶然を装って破られた。それでも私は帆乃花のそばを離れない。補講教室のあるフロアまでたどり着くと、サキの後ろ姿を見つけた。もう一つの目的が達成し、安堵したのも束の間であった。サキは誰かと会話をしている。決して穏やかな会話ではない。私は体内で時限爆弾が作動したような気分になる。サキの話し相手を確認したからだ。
『帆乃花だ…』
最悪のシナリオは見事に的中した。周囲に気を遣いながら2人に駆け寄る。サキが足音に気が付き振り返った。
「蛍先輩!」
サキは明るく声をかける。帆乃花は私を見つめると今にも泣き出しそうだ。
『帆乃花…全ては僕のせいだ…』
私はサキの顔を一瞥すると帆乃花に微笑んだ。立ち位置が大切だ。決してサキを守る様に立ってはいけない。
「帆乃花、用事は終わった?やっぱり一緒に帰ろうよ」
私は帆乃花を刺激しない様に話しかける。しかし、サキがそれを阻止する。
「先輩!この人、なんかおかしいんですよ?先輩のことを狙っているのか?とか、色目使うなとか、酷いことを言われました…」
サキは私の腕にしがみついてくる。最悪だ。帆乃花はその場で叫びだした。周りの学生の視線がぶつかる。帆乃花の手にカッターナイフが握られている。私はサキを振り解くと、帆乃花の手から素早くカッターを奪った。大丈夫だ。誰にも見られていない。
「帆乃花、落ち着いて…ね?」
帆乃花は私の行動に呆気に取られていた。
「サキちゃんも補講だろ?早く行ったほうがいいよ」
サキは何が起こったのかわからないようであった。
「ほら、早く!」
私の声に、サキはようやく動き出した。
「もう一つ、この人は私の恋人だ!とても愛している」
私は心の中でサキに何度も謝罪した。そんな義理はないのだが…。サキは一瞬立ち止まったが、すぐに歩き出した。
『ふぅ…』
振り返ると帆乃花は一点を見つめて震えていた。帆乃花がどんな思いでカッターを手にしたのか。
「帆乃花、震えてるよ…」
帆乃花は私の声が聞こえない様であった。私は急いで帆乃花の額にキスをする。帆乃花の視線と照準が合ってきた。
「帆乃花…一緒に帰ろう?」
帆乃花は震えながら頷いた。私は及第点を確保したと悟ると、膝が震えた。
帆乃花の家の近くの公園で帆乃花をベンチに座らせる。帆乃花を責めるつもりはないが、話し合いが必要だ。
「帆乃花…こんなものを人に向けてはいけないよ…」
私は帆乃花にカッターを渡す。帆乃花は俯いたまま何も言わない。
「僕が原因かな?」
私の言葉に帆乃花が頷く。
「蛍君が後輩に取られそうだったから…」
震えた口調で言うと帆乃花は泣き出してしまった。
「ごめんね……」
帆乃花は私の胸の中で堰が切れたかの様に泣き続けた。帆乃花を優しく撫でる。私は帆乃花が泣き止むまで子供達のボール回しを見つめていた。
帆乃花は泣き止んだが、ずっと私にしがみ付いたままであった。私は帆乃花の家にお邪魔した。
「大きな赤ちゃんだ…」
玄関で帆乃花の靴を並べながら言うと、帆乃花が笑った。私は少し安堵すると、私の大好きな表情を目にしっかりと焼き付ける。
「大丈夫?」
私の問いに帆乃花は頭を横に振る。
「ダメ…もう何もできない…」
甘える帆乃花の頭を優しく撫でる。
「うん、そんな日もあるね…」
私は手を取りながら帆乃花を洗面所まで運んだ。そして、帆乃花の手にハンドソープを落とす。流石に恥ずかしくなったのか、帆乃花は照れながら自分で手を洗う。
「うがいもだよ?」
私は微笑みながら順番を待った。帆乃花がうがいをして洗面台から離れる。私も帆乃花と同じ様に、手洗いうがいをしっかりとする。
「はい、終わり。抱っこ?おんぶ?」
「抱っこがいい…」
私は帆乃花をゆっくりと抱きしめる。
「こんな恋人でごめんね…」
帆乃花が私の顔を見上げながら言った。
「こんな恋人だからいいんだよ」
私はすぐにこんな言葉を吐いてしまう。しかし、それは偽りのない本音である。リビングに着くと帆乃花をソファーに座らせる。甘える帆乃花はとても可愛かった。友人達は私を心配して何かと小言を言う。しかし、友人達は帆乃花をあまり知らない。そして、私自身のことも…。私は帆乃花の隣に腰を下ろす。帆乃花がもたれかかってくる。日常的な光景である。
「本当に私でいいの?」
「うん。いいよ…」
帆乃花は黙って微笑む。その時、私は悟った。帆乃花が苦しんでいるのは私のせいなのだと。
「帆乃花?」
帆乃花は顔をこちらに向けた。
「僕のことで傷つかないで。いい?今日みたいなことは絶対にダメだ!」
帆乃花は黙って頷く。
「何かあれば、直接言って。もちろん、僕はそんなこと無いようにするけど…」
帆乃花は私の発言に少し怯えているようでもあった。
「ご、ごめんなさい…」
帆乃花は俯きながら呟いた。
「帆乃花が傷つくと、僕も痛いから…」
私の気持ちをそのまま伝えた。帆乃花は私に体を預けるように押し倒してくる。帆乃花で視界が覆われていく。いやはや男冥利に尽きる。しかし、これでは少し頼りない…。
帆乃花は私に対して思いの丈をぶつけてくる。私は帆乃花を優しく受け入れる。
『大丈夫。僕はどこにも行かない』
帆乃花が力尽き、私に覆いかぶさる。途端に私は帆乃花専用のオーダーベッドへと変わっていく。ゆっくりと頭を撫でて帆乃花を安心させていく。帆乃花は顔を上げた。細い顎が私の胸元に刺さる。
「お水持ってこようか?」
私の提案に帆乃花は頷く。私はゆっくりと帆乃花を持ち上げて、帆乃花を仰向けに寝かせる。
「すぐに戻ってきてね…すぐ!」
帆乃花は心配そうに私を見つめる。
「大丈夫…帆乃花の部屋だろ?」
私は帆乃花を安心させるように伝える。私は素早くコップに水を入れると勢いよく口に入り込む。ひんやりとした心地良さが自分の存在を肯定してくれるようであった。私はその場で一息着く。そして、再び水を注いで帆乃花の元へと戻った。
「お待たせしました。お姫様…」
私は帆乃花の上体を優しく起こすとコップを渡す。帆乃花はそっぽを向いた。こんな時の帆乃花の甘えた顔が可愛い。私は帆乃花の口元にコップを傾けた。
「ん…」
帆乃花が喉を鳴らしながら水を飲んでいく。
「ふう…もっと…」
姫様の注文に従者は黙って従う。例え世界が敵になろうとも、私はこの姫を守り抜く。私は静かに決意を固めた。
「蛍君…」
改まった帆乃花は少しそわそわしていた。
「私、蛍君以上の人はいないと思う…」
私は黙って聞いていた。
「蛍君が良ければ…私と結婚して欲しい…」
私は思わず口が開いてしまう。帆乃花はその顔を見て、慌ててつけ足す。
「蛍君が良ければの話!蛍君には私以上に素敵な人が見つかるかも…しれないし…」
私は帆乃花の顎を持って顔を近づけていく。そして、帆乃花の唇の感触を確かめる。とても柔らかいが少し震えている。
「それは僕のセリフじゃない?」
私は唇を離して額をくっつける。帆乃花が私に微笑む。
「帆乃花…僕と結婚してください」
「はい…」
私たちは一つに絡まるように抱き合い、この時間と空間をしっかりと噛み締めた。




