⑪
私は大学で帆乃花と待ち合わせをしていた。帆乃花は私を見つけると、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。私も笑顔で帆乃花を受け入れる。誰かに必要とされている。私はこの瞬間に一番の平和を感じるのだ。
「おはよう、帆乃花!」
「おはよう、蛍君!」
私達は自然と手を繋ぐ。ゆっくりと繋がる心と体。繋がり方に正解はない。2人でゆっくりと見つけていけばいいのだ。
「昨日はお邪魔しました」
私は帆乃花に御礼を言う。
「蛍君、私の方こそ…」
帆乃花は私の腕に体を寄せてくる。膨らみの柔らかさが衣類の上から伝わってくる。
「ママ…蛍君のこと気に入ったみたい…」
帆乃花は頬を赤らめて言う。
「そう?それは嬉しいね」
私は帆乃花に微笑みながらゆっくりと歩いていく。私達は大学のエレベーターホールでエレベーターを待っていた。すると、E子達が私達の隣で立ち止まる。
「帆乃花?この前はなんで途中で帰ったの?私達よりやっぱり彼氏さんが良かったの?ふふふ…フラれても泣きついてこないでね!」
私は思わず耳を疑ってしまった。E子達がどんな気持ちでこんな低俗な言葉を投げかけたのだろうか。しかし、それ以上に帆乃花が心配だ。帆乃花は少し視線を落とし、無表情であった。私は帆乃花の手を引きながらエレベーターホールをあとにした。
「ほ、蛍君…?」
帆乃花の弱々しい声を耳で掴むと、私は我に返った。
「帆乃花、大丈夫?」
帆乃花はゆっくりと頷く。瞳に光るものを見つけた。しかし、帆乃花は私に見えないように隠すので気づかないフリをした。
「ごめんね…僕のせいだ…」
帆乃花は頭を横に振る。
「蛍君は悪くないよ…」
帆乃花の言葉が余計に心を抉る。
「これからは僕とずっと一緒にいよう」
「うん」
帆乃花は嬉しそうに頷いた。私達はそのまま映画館へと向かった。辛いことがあった日には少しぐらい逃げたっていい。帆乃花は満面の笑みを私に向ける。私は帆乃花の裏側に隠された気持ちを汲み取る。何かを優先するには、別の何かを犠牲にしなくてはいけないのか。可能な限り犠牲者は出したくない。私は未だにそんな甘い考えを持っていた。映画をそっちのけにして私にもたれ掛かる帆乃花の手を、私はいつもより強く握った。
帆乃花とE子達の対立はすぐにケンイチの耳にも入った。
「蛍!俺は…」
ケンイチは眉にしわを寄せながらも、奥歯を噛み締める。
「ケンイチ、落ち着けって!」
私はケンイチをなだめる。
「ケンイチ君…大丈夫だから…」
私の隣にいる帆乃花がケンイチに声をかける。これには正直驚いた。もちろん、ケンイチも目を見開いて、帆乃花を見上げた。
「帆乃花ちゃん…ごめん。俺のせいで…」
「大丈夫!」
帆乃花は微笑みながら私の手を握る。
「蛍君がいるから…」
私は黙って帆乃花の手を握り返した。帆乃花の手から穏やかな熱が伝わってくる。
「そうか…」
ケンイチは私達を見て少し微笑んだ。私は3人の間でゆっくりと流れる穏やかなその空間を、愚かにも楽しんでしまった。
それにしても、帆乃花は随分と強くなったように感じる。いや、もともと強かったのであろう。私がそれに気がついていなかっただけだ。帆乃花のことを理解していると思っていたが、まだまだ私の知らない帆乃花がいるみたいだ。これからの帆乃花との人生がとても楽しみである。
バイトがあるケンイチと別れ、私達はキャンパスを散歩する。まだ本格的な冬ではないが冷たい風が私達の行く手を阻んだ。
「寒いね…」
帆乃花が震えながら私の腕にしがみつく。
「うん、戻ろうか?」
帆乃花は首を横に振る。
「どこか行く…」
帆乃花の表情から大学にはあまりいたくないようだ。E子達のこともある。帆乃花の感情は当然であろう。
「そうだね…街の図書館でも行こうか?」
「うん!」
帆乃花は震えながら私の提案に笑顔で応じてくれた。
私達は近くにある公営の図書館へと向かった。財政状況が良いのであろう。とても整美な図書館である。
「いつ見ても綺麗だね」
私の言葉に帆乃花が微笑む。私はあまり読書はしない方だが、書籍という物体は好きだ。それに囲まれた図書館という場所は、私にとってお気に入りの場所である。いつ手を取られても常に準備ができているが、自分たちから決して知識を強要したりはしない。
『さぁ、君はどれを選ぶ?』
本の一冊一冊が無言の圧力を放ってくる。私はその圧力がたまらなく好きなのだろう。私は彼らの背中を見ながら心惹かれる一冊を探す。帆乃花も同じように本の背表紙を眺めながら、私の後をついて来る。私とは逆に、帆乃花は大変な読書家であった。しかし、今は知的な冒険より近くの平穏なのであろう。私はそれでもゆっくりと歩く帆乃花に合わせながら、図書館に併設しているカフェへと入っていく。
私達は向かい合って座り、飲み物を注文する。現代的なデザインの図書館とは打って変わり、カフェはモダンテイストで古き良き時代を彷彿とさせる内装であった。一箇所で二つの雰囲気を楽しめる。なんとも贅沢な場所である。
「落ち着くね」
「うん、この雰囲気いいよね!」
帆乃花は私の言葉に笑顔で答える。こうしていると、友人から嫌がらせを受けているようには見えない。私は少し深く息を吐くと注文したコーヒーを口元に運んだ。
(ピロン)
帆乃花の携帯電話から通知音が鳴った。帆乃花は自然に携帯電話を眺めた。
「えっ?ほ、蛍君!」
帆乃花の顔から笑顔が消え、私を見つめた。
「どうしたの?」
私の問いかけに、帆乃花は黙って携帯電話の画面を見せた。そこにはケンイチとE子が対峙している画像が映っていた。どう見ても穏やかではない。そして、R香からのコメントには、
『ばったり遭遇して、ケンイチがE子に突っかかって来た!』
とあった。
「どうしよう…」
静かだが色濃く焦った帆乃花の顔を、私は抱き寄せたかった。
「帆乃花、まずは落ち着いてね。ケンイチは大丈夫!冷静な奴だよ!」
私はつい出まかせを言ってしまう。いつもより鋭く鳴る自身の鼓動を何とか鎮める。
「帆乃花?どこにいるのか聞いてくれる?」
「う、うん…」
帆乃花は急いでR香にメッセージを送る。すぐに返信が来た。
「蛍君!大学近くのファーストフード店だって!」
良かった。ここからそう離れていない。歩いて15分ぐらいか。
「帆乃花?行けるかい?」
「うん!」
私達はマグカップをテーブルに置くと、会計を済ませてカフェを出た。
「どうしよう…」
「大丈夫だから」
私は帆乃花に安心させるように声を掛けるが、帆乃花の歩幅に合わせて歩くのを忘れてしまう。
「きゃっ!」
帆乃花の足がもつれてしまう。なんとか私の手が間に合った。帆乃花の唇は明らかに震えていた。その時、タクシーが通りかかった。私は急いでタクシーに向かって手を挙げる。
「すみません!このまま真っすぐ行って2つ目の信号を右にお願いします!すみません。近いんですけど…」
「はい…」
タクシーの運転手はぶっきらぼうであるが、嫌な顔をせずに走り出した。私は俯く帆乃花の手を握りながら歩道に黄色く変色したイチョウ並木を眺めていた。
「この辺で大丈夫です!」
「はい…」
タクシーは目的地のファーストフード店の前に止まった。私は会計を素早く済ませると、タクシーを降りた。




