⑩
帆乃花の家は繁華街からさほど離れてはいない。先ほどから何度も電話をしているが繋がらない。最悪のケースを思い浮かべてしまう。私は一人置き去りにしてきたケンイチのことを考える余裕はなかった。
帆乃花の家の前に着いた。インターフォンを鳴らすが、誰も出てこない。
『ここではないのか?』
私は選択を誤ったかと不安になった。E子達との買い物中に何かあったのだろう。それもケンイチについて言われたのだ。でなければ、あんなメッセージを送ってこないはずだ。私は無理やり自分を落ち着かせる。
『あの学食か?あの学食で3人でいたところを見られたんだ…』
私は呼吸の仕方を忘れてしまう。
(ガチャッ)
ドアが開いた。
「蛍君?」
「帆乃花…?帆乃花!」
「蛍君…」
帆乃花はドアを開けると抱きついてきた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
帆乃花は私の耳元で呟く。
「帆乃花…E子ちゃん達に何か言われたんだね?」
帆乃花は嗚咽を上げる。
「とりあえず…中に入っていいかな?」
「う、うん…」
私は帆乃花の家に入った瞬間、体が硬直してしまう。部屋が真っ暗だったからだ。少なくとも、帆乃花が私にメッセージを送って私がここに到着するまでの間、帆乃花はこの暗闇の中にいた。その光景を想像すると目頭が熱くなる。
「電気つけようね?」
「うん…」
帆乃花は私の腕にしがみつき怯えていた。
「帆乃花…」
私は帆乃花をソファーに座らせ、帆乃花の前にしゃがみ込む。
「帆乃花…美人さんが台無しだよ?」
私は帆乃花の涙を拭う。帆乃花は一瞬だけ微笑んでくれた。
「ごめんなさい…」
「どうして謝るの?」
帆乃花は俯いたまま黙ってしまう。
「学食でのことを聞かれたんだね?」
帆乃花が頷くと、私の心臓が鉛のように重くなる。
『僕のせいだ…』
私は自分の過ちを恥じた。帆乃花の痛みは自分の痛みだと、帆乃花に諭したばかりなのに。帆乃花の痛みの原因を作ってしまった。
「帆乃花…ごめんね…」
帆乃花は真っ直ぐ私を見つめる。
「蛍君…私とケンイチ君…どちらを選ぶの?」
私は帆乃花の顔が怖かった。真っ直ぐ見つめる瞳に光が差していなかったからだ。
「ケンイチは友人で帆乃花は恋人だ。それは変わらない」
帆乃花が私の言葉をどう受け止めたのか、表情からは上手く読み取れなかった。しかし、この言葉で解決しなかったことだけは確かである。
「ごめんなさい…」
帆乃花がまた謝る。私は帆乃花の謝罪に違和感を覚えてしまう。
「どうして謝るの?」
帆乃花は再び俯いたまま黙り込む。
「帆乃花…」
帆乃花は私の言葉を待っているようだが、私は言葉が出なかった。
「私、不安なの…」
帆乃花が重々しく口を開く。
「蛍君がケンイチ君に盗られそうで…」
「だから、ケンイチは…」
「わかってる!蛍君がケンイチ君に対して友情しか感じていないのは!今だって、ケンイチ君じゃなくて、私のところに来てくれたんだから!」
帆乃花の言葉を脳内で整理するのでやっとであった。
「でも、不安なの!ケンイチ君が蛍君のこと好きなんじゃないかって…今日、E子達に言われて不安になっちゃったの…だから、謝ったの…」
私はあの満月の夜を思い出してしまう。ケンイチの唇の感触を頬に感じてしまう。
「私、蛍君にはケンイチ君との関係も大事にして欲しい…でも、不安なの…」
私は愚かにも都合の良いところだけを切り取ってしまう。
「帆乃花が僕のことを大切に思ってくれてるのはよく伝わった」
帆乃花は目を丸くしている。
「でもね、ケンイチは僕の友達だ!」
「うん…」
「そして、帆乃花は僕の唯一の恋人だ!」
「うん…」
「僕は愛情も友情も選びたい。許してくれる?」
「うん…」
私は嗚咽する帆乃花を力強く抱きしめた。
「そう言えば、僕がケンイチと繁華街にいるところを見たの?」
帆乃花は視線を逸らして頷く。
「世界は狭いね!」
私はメイクが崩れた帆乃花の笑顔を見て、そっと唇を近付けた。
「帆乃花…」
「何?」
「そろそろ、帆乃花のお母さんが帰ってくるんじゃない?」
帆乃花は少し寂しそうに微笑む。私は帆乃花の母の帰宅を待った。しばらくして、ドアが開いた。
(ガチャ)
「ただいま…あれ?帆乃花、それに…」
肩まであるだろう黒髪を後ろで縛り、帆乃花と同じややツリ目の瞳が、真っ直ぐ私に向けられていた。帆乃花の母は状況が理解できないことだろう。自分の娘が見ず知らずの男にしがみついているのだ。帆乃花から恋人の話は聞いてとしても、戸惑うはずだ。
「こんばんは」
私はソファーから立ち上がると、挨拶をする。
「私は帆乃花さんとお付き合いさせていただいている近野蛍です。勝手に上がり込んでしまい、すみませんでした…」
「こ、こんばんは。帆乃花の母です。話は帆乃花から聞いています…」
帆乃花の母は唇を少し震わせて挨拶を返してくれた。
「帆乃花?どういう状況?」
帆乃花の母が助けを求めるように尋ねる。
「私が友達と喧嘩して、蛍君が来てくれたの…」
「そうなの…蛍君、ごめんなさいね」
「い、いえ…」
私は引き際だと感じる。
「帆乃花、お母さん来てくれたから、もう大丈夫だね?」
帆乃花は少し間を開けて頷いた。
「私はこれで失礼します…すみませんでした」
私は帆乃花の母に一礼すると、玄関に向かおうとする。しかし、帆乃花が袖を掴んで離さない。
「ん?帆乃花…」
帆乃花は俯いたまま黙っていた。
「あはは…蛍君、もう少しいられるの?」
「は、はい…」
「コーヒーでも飲んでいきなさい」
「い、いただきます…」
帆乃花の母からの温かい言葉に私は救われた。私はソファーに座り直す。帆乃花は先程までのようにしがみつくことはなかったが、私の手を強く握り締めていた。
「蛍君、砂糖とミルクは?」
「ブラックで大丈夫です」
帆乃花の母はコップを3つテーブルに置いていく。
「いただきます」
私は帆乃花の母に一瞥する。帆乃花も隣でコーヒーを啜った。
「蛍君は同級生?」
「はい…」
「付き合ってどれぐらいだっけ?」
「1年半ぐらいです」
「あら?長いのね…」
帆乃花の母はマグカップを口につけながら目を見開く。
「ママ!」
「ごめん…」
リビングに冷たい空気が張り詰めた。帆乃花の母は苦笑いしながら、口を開いた。
「蛍君、ごめんなさいね…帆乃花はちょっと甘えん坊というか…わがままなところあるでしょ?」
私は少しコーヒーにむせてしまう。
「そ、そんなことは…とても素敵な人です…」
「優しい彼氏じゃない!帆乃花!」
「ママ…」
帆乃花は母親に向かって照れるように言う。
「うちは母子家庭でね…私が看護師だから、とりあえずはやってこれたけど…帆乃花には寂しい思いばかりさせてね…」
帆乃花の母の表情を通じて、帆乃花のこれまでの人生に触れた気がした。
「ママ、もうやめて!」
帆乃花が母親に訴える声はどこか震えていた。
「帆乃花?お母さんと話してもいいかな?」
帆乃花は私の顔を見ると手元に視線を落とした。
「帆乃花さんからも少しお話を聞いておりました」
「え?」
帆乃花の母は目を丸くして私と帆乃花を交互に見る。
「帆乃花さんが甘えん坊な部分は…ありますね…」
私は隣の帆乃花を見た。帆乃花は少し頬を膨らませて私を見る。
「そこも含めて、私は帆乃花さんが大好きです」
帆乃花の母は思わず口を開けてしまう。しかし、すぐに優しそうな口元に戻る。
「ありがとう。帆乃花、良かったわね!」
「ママ!」
帆乃花は照れの裏返しのように、怒った口調で母親に声を投げかけた。私は穏やかな母娘の光景を見ながら、マグカップの底が見えていることに気がついた。
「私はそろそろ…」
「あら?ご飯でも食べてきなさい!」
「えっ!あっ…」
戸惑う私に帆乃花が優しく手を握る。
「蛍君…」
帆乃花が少し甘えた顔で私を見つめる。私はこの表情に弱い。しかし、私にはやるべき事があった。
「すみません。少し用事を思い出しました…」
「そう…まぁ、そうよね…」
帆乃花の母は私に微笑む。
「またいらっしゃいな!」
「はい、ありがとうございます!」
私は帆乃花の手を優しく離す。私は真っ直ぐに玄関に向かった。
「蛍君…」
帆乃花が靴を履きたそうな顔をしている。
「帆乃花、また連絡するから…」
私は帆乃花の母を一瞥しながら言う。
「若いわね…」
帆乃花は母親の言葉に少し頰を赤らめる。
「僕は帆乃花さんに本気ですから…」
帆乃花の母と帆乃花が目を見開く。私はその場で帆乃花の母に一礼をする。
「蛍君、かっこいいね!また遊びにおいで!」
帆乃花の母が優しく笑った。その笑顔はびっくりするほど帆乃花に似ていた。
私は帆乃花の家を後にすると、ケンイチに電話をする。
『蛍?どうした!?』
「今日はごめんね…今どこにいる?」
ケンイチは少し間を置く。
『家だよ』
「少し話せる?会って話したい」
『ああ…』
「今から行くね!」
私は電話を切る。ケンイチはE子と別れた原因を帆乃花から聞いたと思っているはずだ。その後、帆乃花から言われたことも予想していることだろう。私はケンイチの家に到着してしまう。心の霧はまだ払えていなかったが仕方ない。
(コンコン)
ドアをノックする。
「蛍…」
「ケンイチ…遅くにごめんな…」
「いや…まぁ、入れよ」
私はケンイチの部屋に入った。前を歩くケンイチの背を私はじっと見つめる。
「帆乃花ちゃんは良かったのか?」
ケンイチはレンジフードの下で煙草を咥える。
「ああ、大丈夫だよ」
「話ってなんだ?」
ケンイチは蛍の顔を見つめる。その表情は全てを悟っているようにも見えた。
「ケンイチ…俺らは友達だからな!」
ケンイチは煙草の煙をレンジフードに向かって吐く。
「ケンイチ!」
「どうした?帆乃花ちゃんから何か言われたんだろ?」
「ああ…」
「そうか…嫌だろ?こんな俺…」
「だから、俺は…」
「いや、無理するな…俺とはもう遊ばないでって、帆乃花ちゃんからお願いされたか?」
ケンイチの悲しい訴えに、私は言葉が出なかった。
「何しに来たんだ?」
私はケンイチの冷たい言葉に視線を上げる。
「なんだよ…俺は…俺でいいじゃねーかよ…ダメなのか?」
私はケンイチの心の叫びを目の当たりにする。
「蛍…ごめんな。お前まで巻き込んで…」
ケンイチの冷たい表情は私の沈黙で溶けたようだ。
「謝るな!僕はお前を親友だと思っている。それをはっきり伝えたかったんだ!」
「親友…か…」
ケンイチは涙を拭いながら一人呟く。私の脳裏にあの夜の満月が過る。
「辛いよ…」
「ケンイチ…」
「俺だって…もう傷つきたくないんだ…」
ケンイチは蛍から視線を逸らし、自分の吐く煙の後を追っていた。
「僕は帆乃花と結婚する。お前とはいつまでも親友だ!それは変わらない」
ケンイチは蛍の瞳を見つめる。
「ああ…ありがとうな…」
「ケンイチ…」
私はケンイチの言葉から微かに寂しさを感じとった。しかし、すぐに自分の勘違いだと言い聞かせる。
「結婚式とか…するなら呼んでくれよ!」
「ああ…」
「あっ!でも、E子とか…迷惑になるならいいや…」
「たぶん、帆乃花は呼ばないんじゃないかな?」
「そうか…」
ケンイチの表情は私を気遣ういつもの表情と同じであった。
「ああ…僕がいるしな!それにそんな僕を支えてくれるケンイチがいるだろ?」
「そうだったな…」
ケンイチは煙草を斜め上に吐くと笑った。
解決することはとても大切である。しかし、それを急いではいけない。これで良かったのだろうか。自分の利己的な行動を振り返った。そして、静かに悟る。
『僕は自分勝手な男でいいや…』
その方が自分の大切なものを守れる。私はケンイチの家を出た。私は振り返ることなく、しばらくは真っすぐ歩いた。
私は自宅に着く。一息つきたい。何気なく携帯電話を見る。帆乃花からメッセージが入っていた。
『蛍君が大切なものは私も大切にしたい』
そのメッセージは間違いなく帆乃花からのものである。そして、そのメッセージを受信してから1時間以上経過していた。私の背中に冷たい汗が垂れるのを感じる。しかし、帆乃花からはそのメッセージだけであった。いつもの帆乃花なら着信が2回、いや3回はあってもおかしくない。親子の会話でどんな花が咲いたのか。話題は何となく想像がつく。
『ありがとう。僕も帆乃花に対して同じ気持ち』
メッセージを送ると、ベランダの窓から空を見上げた。私は今夜のような月が嫌いではない。目を丸くして見つめてくるが、安心して秘密を共有できる。




