第9話 もう摘みません
年が明けて七日目に、両家が集まりました。
場所はラウテン家の広間です。長い卓の片側にラウテン伯爵と伯爵夫人、その隣にアルベルト様。向かい側に父とわたくし。卓の端に立会人として神殿の書記が一人と、メルク男爵がおられます。
ラウテン家の紋の入った書面が、卓の中央に置かれております。羊皮紙ではなく、透かしの入ったあの紙でした。八年、わたくしが十六通書いた紙です。今日は、わたくしのために使われております。
メルク男爵の隣に、リーゼロッテ様が座っておられました。
「よろしいのですか」
わたくしが小声でお尋ねすると、リーゼロッテ様は首を横に振られました。
「よろしいも何も、わたしは呼ばれておりません。父に頼んで、連れてきていただきました」
頬に赤みがありますけれど、これは元気の色ではありません。馬車で揺られてきた者の色です。膝に毛布を掛けて、肩に外套を着たままでおられます。
広間の暖炉には火が入っていて、卓の上に燭台が二つ。窓には霜が下りております。ラウテン家の広間へ通されたのは、八年で四度目でございました。婚約の書面を交わした日と、伯爵の誕生日が二度と、今日です。
書記が書面を読み上げます。
婚約の解消は、双方の合意による。いずれの家にも瑕疵の記載は残さない。持参金の取り決めは白紙に戻し、贈答は返還を要しない。八年前に結ばれたものが、十行ほどで解かれます。
読み上げの途中で、アルベルト様が一度、書記のほうへ手を上げかけました。それを伯爵が目で止められます。手は途中で止まって、膝の上に落ちました。
「ご異存は」
「ございません」
わたくしが先に答えました。父が頷きます。ラウテン伯爵も頷かれました。
書記が羽根ペンを差し出します。わたくしは署名をいたしました。名を書き終えて、砂を振って、書記に返しました。
アルベルト様の署名は、その次でした。羽根ペンを受け取って、書面の上でしばらく止まっておられます。書記が砂の入れ物を持ったまま待っておりました。
字は大きく、行が下がりました。八年ぶんの詫び状の字とは、まるで違う字です。
インクが乾くのを待つあいだ、広間は静かでした。
「クラリス」
アルベルト様が立ち上がられました。
「待ってくれ」
伯爵夫人が息子の袖に手を掛けられます。アルベルト様はその手を外しませんでしたが、座られもしませんでした。
「署名はした。そのうえで、話をさせてほしい。ここでなければ、聞いてもらえないと思ったから」
「どうぞ」
「三通、手紙を出した。そのあとも四通書いた。出していない。出せなかったのは、書いてあることが全部、俺の都合だったからだ」
書記が羽根ペンを置く音がしました。
伯爵が息子の名を呼ばれました。低い声です。アルベルト様は父君のほうを見て、それから、また卓の向かいへ向き直られました。
「温室に行った。硝子が直せなかった。梯子の掛け方も分からなかった。灰の袋が持ち上がらなかった。八年、俺はあの温室の前まで馬で来て、袋を受け取って、帰っていた」
アルベルト様はそこで一度、言葉を切られます。
「すまなかった。俺は、君に守られていたんだな」
広間の空気が、少し動きました。
伯爵夫人が顔を伏せられます。メルク男爵が咳払いをされました。父は何も言わず、卓の上で手を組んでおります。
誰も、わたくしのほうを見ませんでした。皆さま、アルベルト様をご覧になっています。
わたくしは、外套の内側から小さな紙包みを一つ取り出しました。
今朝、温室で折ってきたものです。
「アルベルト様。これを」
「……薬包か」
「包み口をご覧ください」
アルベルト様は受け取って、目の高さまで持ち上げられました。伯爵夫人も、そちらをご覧になっています。
「二度、折ってございます。湿気ると効きが落ちますので」
「ああ」
「あの子のお薬は、わたくしの温室で摘まれておりました。八年、一度もお尋ねになりませんでしたね」
アルベルト様は薬包を持ったまま、動かれませんでした。
包みの角が、指の力で少し潰れております。八年、この方がこの紙に触れたのは、袋の外からだけでございました。
薬包の紙が、灯りに透けております。中の粉の色が薄く見えるのは、今年の葉の乾きがよかったからでございます。
「摘むのは花の咲く前でございます。少量ずつ束ねて、日の当たらない場所へ逆さに吊るします。乾くのに十日。粉にするのに半日。包むのに小半時。それを毎日、八年」
「クラリス」
卓の向こうで、伯爵夫人が指を組み直されました。ご自分が八年、何を頼んでいたかを数えておられるのだと思います。
「わたくしはそれを、一度も申し上げませんでした。申し上げなかったのはわたくしの落ち度でございます。ですから、責めてはおりません」
わたくしは、そこで手を膝に戻しました。
「ただ、お尋ねにならなかったのはアルベルト様でございます」
伯爵夫人が、扇を持つ手を下ろされました。扇は開いたままで、膝の上に伏せられます。この方が扇を閉じずに置かれるのを、わたくしは初めて見ました。
メルク男爵が、卓の下で娘の手を握っておられるのが見えます。
そのとき、卓の端で椅子が鳴りました。
リーゼロッテ様が立ち上がろうとして、毛布が滑り落ちたのです。男爵が支えようとされましたが、その手を押さえて、リーゼロッテ様はご自分で立たれました。
「アルベルト様」
細い声です。広間の端まで届くかどうかという声です。
「わたしは八年、アルベルト様に側にいていただきました。ありがとうございました」
「リーゼ」
「そのうえで、申し上げます」
リーゼロッテ様は卓に片手をついて、息を継がれました。
「放っておいても平気な人など、どこにもおりません。八年、平気な顔をしていらしただけです」
広間の誰も、何も言いません。
「アルベルト様は、丈夫な人は放っておいてよいと思っていらっしゃいました。わたしは弱いので、放っておかれませんでした。そのぶんを、クラリス様が払っておられました」
リーゼロッテ様は咳をされました。二度、三度。男爵が水を差し出されます。
「わたしは、その払いで八年生きております。ですから、申し上げないわけにまいりません」
そうして、リーゼロッテ様は座られました。座るときに、椅子の背に手が届かず、父君の腕を借りておられます。
広間に、その音だけが残りました。
伯爵夫人が立ち上がって、リーゼロッテ様のところへ行かれ、毛布を拾って膝に掛け直されました。それだけをなさって、ご自分の席へは戻られませんでした。壁際に立ったままです。
アルベルト様は、まだ薬包を持っておられました。
「クラリス」
「はい」
「変わる。時間はかかるだろうが、変わる。字も練習している。温室のことも、教えてもらえば覚える。婚礼の日取りも、今度はこちらから決める」
「はい」
「あの温室は、俺が通う。冬のあいだ、朝に灰を掻きに行く。それくらいはできる」
そう仰いました。できることを探しておられるのだと分かります。八年、探されたことのなかったものが、今日いっぺんに探されております。
「もう一度、やり直させてくれないか」
アルベルト様は、そのとき初めてわたくしの目を見られました。
返事を待つ顔でした。八年で初めてです。
「いいえ。もう摘みません」
書記が書面を巻く音がしました。
伯爵夫人は壁際から動かれません。メルク男爵は目を伏せられます。父が、卓の下でわたくしの椅子の脚を軽く押さえました。
ラウテン伯爵が席を立って、書記に写しを二部と指示をされます。息子のほうはご覧になりません。
アルベルト様は薬包を置く場所を探して、結局、ご自分の手のひらの上に戻されました。
「ラウテン様」
わたくしがそう申し上げると、アルベルト様が顔を上げられます。
「今後、リーゼロッテ様のお薬はわたくしが谷へ送ります。ご心配には及びません」
「クラリス、俺は」
「ラウテン様。八年、ありがとうございました」
「その薬包は、お持ちくださって構いません。わたくしがあなた様にお渡しする、最後の一包でございます」
アルベルト様が、手の中の紙包みを見られました。
「明日からの分は、谷へ送る荷に入れてまいります」
椅子を引いて、立ち上がりました。
広間を出るまでのあいだ、誰も引き止めません。伯爵夫人は壁際で目礼をされました。八年、この方から目礼を受けたことはございません。頭を下げられるのは、いつもわたくしのほうでした。
外套を受け取って、袖を通すと、肩が軽くなったように感じます。廊下へ出るとき、硝子の窓に自分の姿が映りました。冬の光です。窓の隅に古い割れ口がひとつあって、縁が白く粉を吹いております。この家の硝子は、この家の方が直されるでしょう。爪の脇の割れは、まだそのままでした。
アルベルト様は何か仰いましたが、わたくしはもう、その言葉を預かる者ではありませんでした。




