第8話 アルベルト
冬至の夜会で、俺は入口に立っていた。
外套を預けなかったのは、すぐに迎えに出るつもりだったからだ。ヴァイデン家の馬車は日暮れ前に着いた。降りてきたのは子爵一人。
子爵は俺を見て、会釈をして、そのまま広間へ入っていった。何も聞かれなかった。
待っていれば来ると思っていた。理由は三つ考えてある。婚約はまだ解消されていない。家として出ないわけにいかない。それに、あの人は八年一度も夜会を欠かしていない。
三つ数えて、三つとも自分に向けた言い訳だと気づくのに、鐘が鳴るまでかかった。
俺は入口に立ったまま、鐘が鳴るのを聞いた。
去年まで、この鐘を俺は道の上で聞いていた。メルク家へ向かう道だ。今年は会場の入口で聞いた。壁際に椅子が二脚並んでいて、片方に誰かの外套が載っている。もう片方は空いていた。
八年、あそこに立っていたのは誰だったか。
広間には入った。挨拶をして、酒を受け取って、二度ほど話をした。誰も俺に婚約者のことを聞かなかった。三年前までは聞かれたのだと思う。聞かれなくなったのがいつからなのかを、俺は覚えていない。
グレーフェ家の奥方が、母上のところで長く話し込んでいた。母上はずっと立ったままでいる。
家に戻ったのは、日付が変わってからだった。
眠れなかったので、机に向かった。書きかけの手紙が三枚重ねてある。四通目も、五通目も、書いては置いてある。母上に、そういうものは出さないほうがいいと言われた。
机の抽斗に、便箋がまだ束で入っている。ラウテン家の紋の透かしが入った紙だ。この紙を注文しているのは母上で、一年に一度、王都から取り寄せている。
八年、この紙に文字を書いていたのは俺ではない。
紙を一枚、新しく取った。
俺は数えることにした。
薬は一日に一包。一年で三百六十五。八年で。
指で二度計算を間違えた。三度目に合った。
「八年で、二千九百二十包。……俺は、一度も数えなかった」
詫び状は十六通。夜会は八回。クラリスの誕生日も八回。灰は荷車で十六台。硝子は二十四枚。
数えられるものは、それで終わった。
紙を裏返して、もう一つ書いた。
俺がクラリスに渡したもの。
線を引いて、しばらく待った。何も出てこない。婚約の指輪は母上が選んだ。年に一度の贈り物も母上が手配していた。手配していたと思っていたが、あれは誰が選んでいたのだろうか。
たぶん、あの人が自分で選んでいる。
紙を丸めて、そのまま火に入れた。
火のほうを見ていると、紙は縁から丸まって、字のあったところが最後に黒くなった。二千九百二十という数字だけが、しばらく白いまま残る。
翌朝、メルク家へ行った。
リーゼは起きていて、枕元の盆に葉を並べていた。図譜が開いたままになっている。前に来たときと同じ光景だが、葉の数が増えていた。
「アルベルト様」
「調子はどうだ」
「よろしゅうございます。今年は呼び鈴を鳴らす夜が少のうございます」
部屋は暖かい。この家で火の入っている部屋はここだけだと、前に来たときに気づいた。
俺は椅子に座る。膝に手を置いて、それから、その手をどこにも置けなくなった。
「リーゼ」
「はい」
「俺は、八年、袋を運んでいた」
「はい」
「中身のことを、一度も聞かなかった」
リーゼは葉を一枚、指でつまんで、盆の端へ寄せた。
「アルベルト様。申し上げることがございます」
「なんだ」
「わたし、南へ移ります。もうアルベルト様に運んでいただかなくて大丈夫です」
窓の布が、風で膨らんだ。
「南、というのは」
「谷の療養所でございます。冬でも雪の積もらない土地だそうです。父が話をつけてくださいました。去年から探しておりましたけれど、わたしが移ると言い出せずにおりました」
「なぜ、言えなかった」
「ここにいれば、アルベルト様がいらっしゃいますので」
そう言って、リーゼは盆の葉を並べ直した。
「いつ」
「春の初めに」
俺は、何と言えばいいのか分からなかった。この八年、俺が言ってきたのは、俺が側にいるという言葉だけだった。
春の初め。峠が開くころだ。荷は十日から十二日かかると、隊商の者に聞いたことがある。誰から聞いたのかは思い出せない。
「向こうでは、誰が薬を」
「クラリス様が種を持たせてくださいます。谷でも育つそうです」
「クラリスが」
「はい」
「クラリスは、南のことを知っているのか」
リーゼが俺を見る。それから、少し首を傾けた。
「アルベルト様。わたしは八年、アルベルト様に側にいていただきました」
「ああ」
「側にいていただくのと、冬を越すのとは、別のことでございました」
俺は何も言わなかった。
「それを申し上げるのに、八年かかりました。申し訳ございません」
「南は暖かいそうでございます。図譜に載っている草の、半分は谷にあるとクラリス様が仰いました」
「そうか」
「向こうで、薬包を自分で折れるようになりたいのです。二度折るのだと、クラリス様に教えていただきました」
「クラリスは、南の話をよくするのか」
「なさいます。峠のことと、日数のことと、荷の保ちのこと」
「誰から聞いた話だ」
「隊商の方だと伺いました」
俺は、その名前を知らない。
そう言って、リーゼは指を二度、折る形に動かす。包み口を折る手つきだった。あの折り方を、この子はもう覚えている。
リーゼが謝った。
謝られる筋合いのないほうが、俺だ。
メルク家を出たのは昼過ぎだった。
馬で戻る道は、ヴァイデン家の前を通る。俺は近い道を選んだ。
門の前で、馬を止めた。
冬至の三日あと。八年、この日にどこにいたかを、俺は今朝まで数えたことがなかった。数えれば八回だ。八回とも、メルク家の門の内側にいた。
門は開いていた。中に馬車が二台停まっている。一台は見覚えのある紋だった。メルク家のものだ。リーゼは動けないから、あれは男爵か、使いの者だろう。
門柱の脇に、荷馬車が一台停まっていた。荷台に木箱が積んである。箱には荷札が結んであって、風で少し揺れていた。字までは読めない。
裏庭のほうに、灯りがついていた。
硝子の建物が、内側から白く光っている。屋根の雪が溶けて、縁のところから滴が落ちていた。俺は門の外から、それを見ていた。
板を打ちつけた場所は、まだ黒い四角のままだ。あの一枚を嵌めるのに、俺は半日かけて何もできなかった。中にいる人は、たぶん今夜のうちに直している。
硝子越しに、人影が三つ動いていた。一つは背が高い。あれがクラリスだ。八年見てきた立ち方だから、影でも分かる。分かるということが、今日はこたえた。
もう一つは、男の背だった。
門番に、あれは誰かと聞けばよかったのかもしれない。聞かなかったのは、答えが分かっていたからではない。分からないままにしておきたかったからだ。
荷馬車の荷札が、風で裏返っては戻っている。読めたところで、あれは俺の名では書かれていない。
門番が出てきて、俺を見て、それから何も言わずに戻っていった。取り次ぎに行ったのではない。誰が来たかを確かめただけだ。取り次ぎを頼めば、たぶん通されるだろう。八年、俺はこの家の婚約者だった。
俺は馬を降りなかった。
呼ばれていない場所へ入る作法を、俺は知らない。呼ばれる側にしか、いたことがなかったからだ。
灯りのついた硝子の中で、誰かが笑っていた。俺の知らない笑い方だった。




