第7話 九度目の冬至に誰も来ない
ラウテン伯爵夫人がいらしたのは、冬至の四日前でした。
先触れの文が朝に届いて、昼過ぎに馬車が門を入ってまいりました。応接の間に火を入れて、茶の支度をさせて、わたくしは玄関でお迎えいたしました。八年、この家へ夫人がいらしたことは三度しかございません。
「クラリスさん。突然に申し訳ありません」
「どうぞ、お掛けくださいませ」
夫人は外套を侍女に預けて、椅子に座られました。背筋が伸びていて、指の置き方まで整っております。
「グレーフェ家の件は、わたくしが書きました」
「そう伺っております」
「八年ぶりに自分で書きました。手が痛くなりました」
そう仰って、少しだけ笑われます。それから、笑いを収められました。
「あなたに、長いあいだ書かせておりました」
「はい」
否定はいたしませんでした。八年、わたくしはそう申し上げてまいりましたので。
応接の間の火は、朝から入れておりませんでした。急に焚いたので、部屋の上のほうだけが温まって、足元はまだ冷えております。膝掛けを勧めても、夫人は結構ですと仰います。
茶に口をつけて、碗を戻されます。
「息子が、毎日机に向かっております」
「そうですか」
「書いては消し、消しては書いております。あの子は、自分の字が読みにくいということを、この歳になるまで知らずにおりました」
「そうですか」
「クラリスさん」
膝の上で、夫人が指を組まれます。
「息子は変わります。もう一度だけ、機会をやってはくださいませんか」
火が薪を割る音がしました。
その音が収まるのを待って、わたくしは口を開きます。
「機会は、八年ぶんございました」
夫人は、何も仰いませんでした。
炉の火が細くなりましたので、侍女が薪を足しに参りました。夫人はその者が出ていくまで待たれます。この方は、使用人の前でその話を続けるということをなさいません。八年、そういう作法だけは正確な方でした。
「今年の冬至の夜会は、いかがなさいますか」
そうお尋ねになったのは、しばらく経ってからです。
「欠席いたします。父が出ますので、家としては差し支えございません」
「息子は出ます」
「そうでしょうね」
「あの子は、あなたが来ると思っております」
わたくしは茶を注ぎ足しました。夫人の碗にも、自分の碗にも。
「伯爵夫人。八年、わたくしはあの方が来ると思っておりました」
夫人が顔を上げられます。
「毎年、髪を結って、支度をして、隣を空けて立っておりました。思っているというのは、そういうことでございます」
しばらく、夫人は黙っておられました。それから碗を持ち上げて、口をつけずに戻されます。
「わたくしは、あなたを丈夫な娘だと申しておりました。他家の奥方にも、そう申しておりました」
「存じております」
「ええ。ご存じでしょうね」
夫人は立ち上がられました。侍女が外套を持ってまいります。玄関まで見送りに出ると、雪が降り始めておりました。
「クラリスさん。婚約のことは、年が明けてから両家で」
「承知いたしました」
馬車が門を出ていくまで、そこに立っております。それから温室へ回りました。
冬至の日は、朝から曇っておりました。
父は昼過ぎに支度を始めて、日暮れ前に出てまいりました。行かないのかと一度だけ聞かれます。はい、と答えました。父はそれ以上何も言わず、手袋をはめて、馬車に乗り込みました。
屋敷の中は、いつもの冬至の日と同じように静かでした。台所だけが忙しく、あとは誰も何もしておりません。
わたくしは湯を使って、髪を洗いました。夜会の日は結い上げますので、洗うのは翌朝と決まっております。九年目にして、順番が変わりました。
わたくしは前掛けをして、温室へ入りました。
作業台に、荷札の束が置いてあります。硬い紙に油を引いたもので、雨に濡れても字が滲みません。春に南へ出す株の分を、今夜のうちに書いておくつもりでおりました。
産地。摘んだ月。運ぶ隊商の名。
ヴァイデン子爵領、と書きます。三月、と書きます。オルト隊商、と書きます。
字は小さく、揃えて書きます。荷札は積み荷の一番上に結びますので、雨と埃で汚れることを見込んで、太めのペンを使います。八年、この札にわたくしの名を書いたことはありません。
一枚目を書き終えたところで、外に馬の音がしました。
「クラリス様」
オルトさんでした。冬に来られるのは初めてです。
「南へ下る途中で、こちらの前を通りましたので」
「この時期にお通りになるとは」
「雪の前に谷まで戻ります。峠が閉まると、春まで動けませんので」
オルトさんは温室の中まで入って、いつものように棚を見ていかれました。それから、作業台の荷札に目を留められます。
「もう書いておられるのですか」
「夜のうちなら手が空きますので」
「今夜は、この地方は夜会ではありませんか」
「ええ」
それだけ申し上げました。オルトさんも、それ以上はお尋ねになりません。荷札を一枚手に取って、字の上を指でなぞられました。
「クラリス様。南の谷に、温室がひとつ空きます。あなたの名で預かる話です」
わたくしはペンを置きました。
「預かる、と仰いますと」
「持ち主は八十を過ぎました。子はおりますが、土いじりをする者はおりません。売ると買い手のいい値で薬草園が畑になります。谷の者はそれを嫌がっております」
「それで」
「育てる者に預けたい、と持ち主は言っております。地代は谷が持ちます。摘んだものは、預かった者の名で出します」
「谷まで、荷は何日かかりますか」
「春先なら十二日。秋なら十日です」
「株は、十日以上は保ちません」
「ですから、谷で摘めるものは谷で摘みます。こちらから運ぶのは種と苗です」
そういう話を、この方は値の話より先になさいます。
わたくしは荷札の束を見ました。
「わたくしの名で」
「産地と、摘んだ月と、摘んだ者の名。三つ書ければ、南ではそれで通ります」
オルトさんは荷札を戻されました。
「返事は春で構いません。断っていただいても、こちらの荷は変わらず運びます」
「なぜ、わたくしに」
「去年の冬、この温室で摘んだ束を嗅ぎました。ああいう乾き方をさせる家は、そう多くありません」
オルトさんは扉のところで、一度足を止められました。
「髪を、洗われましたか」
「ええ」
「こちらの夜会は、結い上げるものだと伺っております」
「ええ」
それ以上は何も仰いません。行かないのですか、ともお尋ねになりませんでした。八年、わたくしがどこにいるかを気にかけてくださった方は何人かおられます。どこにいないかに気づいた方は、この方が初めてです。
それだけ仰って、オルトさんは外へ出ていかれました。門のところで馬に乗って、南のほうへ下っていかれます。
温室に戻って、二枚目の荷札を書きました。
書きながら、南の谷というものを想像してみました。行ったことのない場所です。オルトさんの話に出てくるのは、峠と、日数と、株の保ちだけでした。それでも、地代は谷が持つと仰いました。摘んだものは預かった者の名で出すとも。
御者が戻ってきたのは、日が落ちてしばらくしてからです。父を会場へ送って、そのまま戻ってきたのだと言いました。
「お嬢様。ラウテン家の若様が、入口に立っておいででした」
「そうですか」
「外套もお脱ぎにならずに。どなたかをお待ちのようで」
そう言ったきり、この人はそれ以上を口にしません。八年、この人はわたくしを乗せてあの会場へ通っております。
「ありがとう。もう休んで」
御者が下がったあと、温室の中は静かになりました。
硝子の外は雪です。屋根に積もり始めていて、明日の朝は落とさなくてはなりません。焚き口に薪を三本足して、蓋を閉めました。
三枚目の荷札を取りました。
町の礼拝堂の鐘が鳴り始めます。冬至の夜会が始まる合図です。八年、この鐘を、わたくしは会場の中で聞いてまいりました。外で聞くと、思っていたより低い音でした。
冬至の鐘が鳴っても、わたくしは荷札に産地を書いておりました。




