第6話 アルベルト
手紙は三通出した。
一通目は、その日の夜に書いた。リーゼの部屋から帰って、外套も脱がずに机に向かった。知らなかった、すまなかった、これからは俺が運ぶ。そう書いて、翌朝、使者に持たせた。
返事はない。
二通目は三日後だ。一通目が短すぎたのかもしれないと思ったから、今度は長く書いた。八年ぶんの礼と、母が頼んでいた詫び状のことと、これからどうしたいかを、便箋三枚に分けて書いた。字が大きくなって、行が下がるのを直しながら書いた。
返事はない。
クラリスは筆まめな人だ。母上の頼みには、翌日には返事が来る人だ。それが二度とも来ないというのは、忙しいということだろうと俺は思った。
三通目には、会って話したいと書いた。日を指定し、返事がなければその日に伺うとも添えた。返事はない。そこで俺は、その日にヴァイデン家へ行くことにした。
行くと決めてから、少し気が楽になった。手紙で伝わらないなら会えばいい。俺はそう考えて、その日の朝は馬を早く出した。
会えば話は通る。俺はそう思っていた。八年、クラリスと言い争ったことは一度もない。あの人は俺の言うことに、いつも分かりましたと答えてきた。今度もそうなるはずだった。
ヴァイデン家に着いたのは、昼を回ったころだ。
玄関で子爵に挨拶をして、娘は温室だと言われた。子爵は俺の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。廊下を抜けて裏庭へ出ると、雪の残る畑の向こうに硝子の建物があった。
思っていたより大きい。
八年、ここへは何度も来ている。だが正面から見たのは初めてかもしれない。いつも扉のところで薬の袋を受け取って、そのまま馬に戻っていた。中へ入ったことは、数えるほどしかない。
婚約が決まった年に、一度だけ中を歩いた。棚と、苗の並んだ台と、天井から下がった草の束があった。暖かくて、湿った土の匂いがする場所だ。それを覚えているのは、その日に俺が、この人と一緒ならリーゼも冬を越せると言ったからだ。あれは俺の言葉のうちで、いちばん都合のいい一言だった。
北側は石の壁で、南に向かって硝子の屋根が斜めに下りている。細い鉄の骨が縦に並んでいて、その隙間に硝子が嵌まっていた。屋根の低いほうの端に、板を打ちつけてある箇所がある。
近づいて見ると、板の下に硝子がなかった。
「アルベルト様」
扉が開いて、クラリスが出てきた。前掛けをして、袖を肘までまくっている。手袋はしていない。
「三通、手紙を出した」
「拝見しました」
「返事がなかった」
「はい」
それだけだ。言い訳もしないし、怒ってもいない。俺は少し待ったが、続きはなかった。
「あそこの硝子は、割れたのか」
「冬至の夜に」
冬至。俺があの子の家にいた夜だ。
「直させてくれ」
クラリスは俺の顔を見た。それから、板を打ちつけた場所のほうへ目をやる。
「梯子は納屋にございます」
俺は納屋へ行った。納屋の中は暗くて、鍬と鋤と、名前の分からない道具が壁に並んでいた。どれも柄の握るところだけが黒い。梯子は思っていたより重くて、肩に担ぐと先が地面に擦った。屋根の下まで運んで、壁に立て掛ける。
立て掛けた梯子が、傾いた。
片方の脚が短い。俺はもう一度立て掛け直して、片手で押さえながら上ろうとした。三段目で梯子が滑って、俺は肩から雪の中に落ちた。
クラリスは扉の前に立っていた。手も出さなければ、声も出さない。
「板を、噛ませるものはあるか」
「納屋の左の壁に立ててございます」
言われたとおりの場所に、厚さの違う板が何枚か立ててあった。どれを使えばいいのかは分からない。適当に一枚選んで、梯子の短いほうの脚の下に敷いた。今度は傾かなかった。
上ってみると、屋根の傾きは思っていたより急だった。革の靴では滑る。俺は縄を腰に回して、北の壁の金具に結んだ。金具が壁にあるということは、いつも誰かがそうしているということだ。
板を外すと、硝子の抜けた枠が見えた。
枠の縁に、割れ残りが少し残っている。割れ口の縁が白く粉を吹いていて、指で触ると、その粉が指の腹について落ちなかった。
「新しい硝子は、納屋の奥に立てかけてございます」
下からクラリスの声がした。
「寸法は、上から二枚目のものが合います」
俺は下りて、納屋から硝子を運んだ。運ぶだけで手が震えた。冷えているのに、背中に汗をかいていた。
硝子は思ったより重い。両手で持つと足が動かせない。片手で抱えて梯子を上ると、もう片方の手が空かない。三度目に上りかけたとき、硝子の角が枠に当たって嫌な音がした。俺は一度下りて、地面に置き直した。
嵌めようとして、入らなかった。
寸法は合っている。だが枠のほうが歪んでいて、片側が二分ほど狭い。俺は硝子を下ろして、枠を見た。
縦の鉄の骨が、一本だけ内側へ曲がっている。
「これは」
「骨がたわんでおります」
「骨が、たわんでいるのか。……どこを、どう直すんだ」
クラリスは答えなかった。答えないまま、しばらく俺を見ている。それから、口を開いた。
「当て木を添えて、下から起こします」
「どこに当てる」
「たわんでいる場所に」
「たわんでいる場所は、どこで分かる」
返事はなかった。
俺は屋根の上で、鉄の骨に手を当てた。冷たい。どこが曲がっているのかは、目で見ても分からない。手で押すと全部が少し動く気がする。押しすぎると隣の硝子が鳴った。
当て木を探しに一度下りて、また上った。今度は板を持って上ったので、片手しか使えない。当ててみたが、どこへ当てても同じように見える。強く押すと、二つ隣の硝子が小さく鳴る。俺は手を離した。
半刻ほど、そこにいた。
風が出てきて、指の感覚がなくなってきた。手袋をすると骨の傾きがますます分からなくなる。外すと、指のほうが動かなくなる。
下りたとき、クラリスはもう扉の前にいなかった。板は打ちつけたまま、硝子は地面に置いたままだ。俺は硝子を納屋へ戻した。運ぶだけなら、俺にもできる。
納屋の隅に、木箱が三つ積んであった。どれにも荷札が結んである。産地と、月と、それから隊商の名前。オルト隊商、と読めた。
「これは」
「南から届く種苗です。年に二度」
「年に二度、誰かがここへ来ているのか」
「ええ」
それだけ答えて、クラリスは掻き棒を取りに行った。年に二度、この温室の中まで入って、棚を見ていく人間がいる。俺は八年、扉の前から先へ入ったことがなかった。
温室の北側へ回ると、壁の外に低い焚き口があった。鉄の蓋が開いていて、中は空だ。その脇に麻袋が置いてある。持ち上げようとして、持ち上がらなかった。
灰だ。
袋の口から中を見ると、灰が詰まっている。手を入れると、まだ少し温かい。
焚き口の奥は、暗い穴になっていた。煙道が床の下へ続いているのだろう。この熱で、硝子の下の空気が温まる。
「一日ぶんか」
俺は独り言を言った。
「一日ぶんでございます」
顔を上げると、クラリスが壁の角のところに立っていた。
「毎朝、掻き出します。溜まると風の通りが悪くなって、夜のうちに温度が下がりますので」
「毎朝」
「ひと冬で、荷車に二台ほど出ます」
「昨日の分は」
「あちらの灰置き場に」
畑の隅に、灰の山があった。雪の上に灰色の筋が何本も引かれている。麻袋を引きずった跡だ。同じ道を、何度も通った跡だった。
俺は麻袋を見た。それから、掻き棒が壁に立てかけてあるのを見た。柄の握るところだけが黒くなっている。
「クラリス」
「はい」
「俺は、この温室のことを、何も知らないな」
「はい」
否定はされなかった。
「教えてくれれば、覚える」
「そうですか」
そうですか、と言った。分かりました、ではない。
八年、この人が俺に分かりましたと答えなかったのは、たぶん初めてだった。
クラリスは掻き棒を取って、焚き口の前にしゃがんだ。俺のいる側に背を向けて、蓋を閉め、留め金を落とした。日が傾いて、硝子の屋根が赤くなっている。板を打ちつけたところだけが、黒い四角に見えた。
まだ間に合う。俺はそう思って、割れ口の粉を指で拭った。




