第5話 ヘレナ
グレーフェ家からの返書は、三行しかありませんでした。
お心遣い、たしかに拝受いたしました。ご当家におかれてはお忙しい折とお察し申し上げます。今後とも変わらぬお付き合いを賜りますよう。
丁寧な文面です。丁寧すぎる文面でもあります。
三十年この地方で家を預かっておりますと、この長さの返書が何を意味するかは分かります。詫びを受け取ったが、納得はしていない。そういうときの長さです。
グレーフェ家の奥方とは、若い時分から茶会を行き来しております。あの方が本気で気を悪くされたときは、こちらの近況に一言も触れません。今日の三行には、こちらのことが一行だけ入っております。それが、いちばん冷たい書き方でございます。
わたくしは呼び鈴を鳴らして、先月の茶会の記録を持ってこさせました。
グレーフェ家の茶会に、ラウテン家は欠席しております。返礼の品も遅れました。ですから息子の名で詫び状を出すようにと、わたくしはヴァイデン家へ文を送りました。いつものとおりに。
そこまで思って、手が止まりました。
いつものとおりに。
ヴァイデン家へ。
書斎の抽斗から、控えの束を出しました。この家では、外へ出した詫び状の写しを二十年ぶん取ってあります。息子の代になってからの分は、別の紐で括ってあります。
一番上の写しを、灯りの下へ持っていきました。
細い字です。右へわずかに倒れて、行の間隔がきれいに揃っています。「ですので」という言い回しが二度出てまいります。息子の口癖です。
次の写しも同じ字でした。その次も。
十六通、全部が同じ手で書かれています。
二通目を開いてみました。三年前の秋、狩りの約束を違えたときのものでございます。文面の終わりに、先方の畑の初霜を案じる一行が添えてございました。あの年の初霜がいつだったかを、息子は知らないはずです。
わたくしは、その束を膝に置いたまま、しばらく座っておりました。
思い返してみますと、息子が机に向かっているところを、この八年で何度見たでしょうか。狩りの支度をしている姿は覚えております。馬に乗る姿も。メルク家へ発つ姿は、数え切れないほど見ております。
机に向かう背中は、思い出せません。
それから、今日届いた返書のことです。
今回だけは、わたくしはヴァイデン家へ文を送りませんでした。送らなかったのではなく、送ったのに返事がなかったのです。使者は便箋を置いて帰り、それきり何も届きませんでした。ですから息子には、自分で書くようにと申しております。
書いた、と息子は言いました。出した、とも。
わたくしは呼び鈴をもう一度鳴らして、息子を書斎へ呼びました。
「グレーフェ家から返書が来ました」
「早いな。読んだのか」
「読みました。あなたの出した詫び状の控えは」
「控え」
息子は、控えという言葉の意味を測りかねているような顔をいたしました。
「写しを取らずに出したのですか」
「取らなかった。急いでいたから」
わたくしは膝の上の束を、机に置きます。
「では、これをご覧なさい。この家が二十年、外へ出してきた詫び状の写しです。上の十六通が、あなたの代のものです」
息子は一枚目を手に取りました。それから二枚目を。三枚目のところで、手の動きが遅くなります。
「アルベルト。この八年、あなたの詫び状はどなたが書いていましたか」
息子は答えませんでした。
答えないということが、答えでございました。
「クラリスさんですね」
「……ああ」
「あなたが頼んだのですか」
「頼んだこともある。ほとんどは、母上が」
そのとおりです。頼んでいたのはわたくしです。息子の名で、と書き添えていたのもわたくしです。
八年、わたくしはこの家の礼を保ってきたつもりでおりました。返礼の遅れも、欠席も、丁寧な一通で収めてまいりました。ラウテン家の詫び状は評判が良いと、他家の奥方から言われたこともございます。
そのとき、わたくしは何と答えたでしょうか。
息子がよく気のつく子でございますから、と。
たしかにそう答えました。他家の奥方の前で、扇を持った手を口元に当てながら。
「母上。クラリスは、薬草もやっていたそうだ」
息子が、そんなことを言い出しました。
「メルク家の薬は、全部ヴァイデンの温室から出ていた。八年、俺は袋を運んでいただけだ」
「あなたは、それを知らなかったのですか」
「知らなかった」
わたくしは束を揃えて、紐を掛け直します。掛け直しながら、指が思うように動きませんでした。
この家は、あの娘に何を渡していたでしょうか。婚約の話は八年前に決まりましたけれど、婚礼の日取りは決まっておりません。決めなかったのはこちらです。急ぐ必要がないと思っておりました。あの娘は待つ、と思っておりました。
なぜ待つと思ったのか。
待たれたことしかなかったからでございます。
「グレーフェ家には、わたくしが書きます」
「母上が」
「ええ。この家の者が書かなくてはなりません」
息子が出ていったあと、わたくしは今日の返書をもう一度読みました。それから、机の隅に置いてあった、息子の書いた詫び状の下書きを見つけました。丸めて捨てそこねたものです。
裏を見ますと、書き直しの跡がございました。同じ一行を三度書いて、三度とも線を引いて消してあります。
広げてみますと、字が大きく、行が下がっております。「ですので」は一度も出てまいりません。
息子の字を、わたくしはこの日、初めてまともに読みました。




