第4話 リーゼロッテ
束の匂いは、三日目でようやく分かってきました。
クラリス様が置いていってくださった乾いた葉を、枕元の盆に並べています。図譜の頁をめくって、葉の形と見比べます。四つのうち二つは名前が分かりました。あとの二つは、まだです。
名前は、クラリス様が紙に書いてくださいました。そのうちの一つの下に、南の谷にもあるそうです、と添えてございます。谷という字を、わたしは何度か指でなぞりました。
匂いを嗅ぐと咳が出ます。ですから一度に一つだけにしています。
三日で四つ。これがわたしの、この冬の仕事です。けれど、朝に起きて、日が暮れるまでにやると決めたことがあるのは、久しぶりでございます。
窓の布は昨日、侍女が張り直してくれました。隙間風が止まると、部屋の空気が動かなくなります。
起きていられるのは、日に三刻ほどでございます。そのうち一刻は食事と着替えに使います。残りで、本を読むか葉を見るか、どちらかを選びます。
枕元の呼び鈴は、紐の先が擦り切れております。夜中に鳴らすと、下の部屋の侍女が起きてきます。去年の冬は、ひと月に二十度ほど鳴らしました。今年は、まだ四度でございます。
変わったのは、届く日の間隔です。前は七日ぶんが十日おきに来ることがありました。今年は七日ごとに来ます。
昼前に、アルベルト様がいらっしゃいました。
「リーゼ。起きているか」
「はい」
「顔色がいい。冬のこの時期にしては珍しいな」
アルベルト様はいつも、部屋に入ると窓のほうへ行かれます。それから寝台の脇の椅子に座って、膝に手を置いて、こちらを見られます。八年、この順番が変わりません。
「今日は町へ寄ってきた。橋の普請が始まっていて、荷馬車が回り道をしている。それで少し遅くなった」
「お忙しいのに」
「忙しくない。今日は父上が領地の集まりで、母上は王都の親戚のところだ。それに橋のことで人手が要る。だから、来られるうちに来ておこうと思ってな」
三つ。アルベルト様がお話しになるときは、いつも理由が三つ並びます。
そう仰います。けれど、橋に人手を出す差配をなさるのは、この方ではありません。ラウテン家の差配の方です。
「本を読んでいたのか」
「図譜です。葉の形が載っております」
「そういうものが好きなんだな。今度、王都の本屋で探してこよう」
「ありがとうございます」
去年も同じことを仰いました。一昨年も。本は届いておりません。この方は、その場で思いついたことを口に出されるだけです。口に出したことは、この方の中では済んだことになります。
盆の上の葉を、アルベルト様はご覧になりません。図譜の頁も、開いたまま伏せてあるのに、何の頁かとはお尋ねになりませんでした。
「クラリスは冬でも風邪ひとつひかない。丈夫な人だ。あれで少しは休めばいいんだが」
「休んでいらっしゃらないのですか」
「さあ。休んでいるんじゃないか。温室くらいのものだろう、あの人がやっているのは」
「そういえば」
椅子の背に、少しもたれられます。
「今週は、クラリスから薬を預からなかった。忘れていたわけじゃない。温室のほうに寄る時間がなくてな」
「そうでございますか」
「足りているか。足りていないなら、明日にでも取りに行く」
わたしは息を吸いました。細く、二度に分けて。
「足りております」
「そうか。よかった」
アルベルト様は本当に安心したお顔をされます。この方は嘘をつかれません。安心も心配も、そのまま顔に出ます。
「先週の分が残っていたのか」
「いいえ」
小箱は、クラリス様が置いていかれたものです。桐の薄い箱で、蓋には何も書いてございません。中に八包、きちんと並べて入れてありました。並べ方まで、毎回同じでございます。
わたしは枕元の小箱に手を伸ばしました。蓋を開けて、薬包を一つ取り出します。
「これでございます」
「ああ。それだ」
「アルベルト様。これを、ご覧になったことはございますか」
「見ているだろう。毎週、俺が運んでいる」
「運んでいらっしゃるのは、袋です」
部屋の中が静かになりました。廊下で侍女が何か落とす音がして、それから、また静かになります。
わたしは薬包を、アルベルト様の目の高さまで持ち上げました。
「包み口をご覧ください。二度、折ってございます」
「……ああ」
「湿気ると効きが落ちますので、一度では足りないのだそうです。三年前の冬から、この折り方に変わりました。それまでは一度折りでした」
アルベルト様は薬包を見ておられます。
「折り方が変わるということは、折っている方がいるということでございます」
「それは、そうだが」
「同じ手の方が、八年折っておられます」
わたしは薬包を膝に下ろしました。それから、もう一度息を吸います。長い言葉は、続きません。
「アルベルト様。その薬は、クラリス様の温室で摘まれたものです。八年、一度も変わっておりません」
アルベルト様は、何も仰いませんでした。
膝に置かれていた手が、動きます。動いて、行き場を探すように途中で止まりました。それから、椅子の肘掛けを握られます。
「毎週、袋を受け取っていた」
「はい」
「中を、見たことがなかった」
「はい」
「クラリスの、温室で」
「はい」
アルベルト様は椅子から立ち上がられました。それから、また座られます。行き先のない立ち上がり方でした。
「あの家の温室は、薬草も出していたのか」
「この地方でいちばん多く出しております」
「知らなかった」
「存じております」
「クラリスは、そういうことを言わない人だから」
「はい」
「言ってくれれば、俺だって」
そこで止まられました。何を言えばよかったのか、たぶん、ご自分でも分からなかったのだと思います。
存じております、とだけ申し上げました。けれど、この方は続きを待っておられます。八年、待たれたことのないほうがわたしですのに。
「三年前の秋に、一度だけお尋ねしました。この薬はどなたが用意してくださるのですかと。アルベルト様は、家の者が用意している、とお答えになりました」
「……言った気がする」
「家の者、とはどなたのことでしょう」
答えは返ってきませんでした。
窓の布が、内側へ少し膨らみます。風が出てきたようです。今夜は冷えるでしょう。冷える夜は、薬を一包多く飲みます。
「あの人は、俺がいなくても平気なんだ」
「そうでございましょうか」
「平気だろう。八年、何も言わなかった」
八年、何も言わずにいられる方は、平気な方でしょうか。そう申し上げようとして、やめました。それは、わたしが申し上げることではございません。
「クラリスは、丈夫だから」
八年、何度も聞いた言い方です。丈夫だから、放っておいてよい。丈夫だから、後回しにしてよい。わたしは、その言い方の裏側におります。弱いので、優先される娘でございます。
「なぜ、今まで黙っていた」
その問いは、たぶん、責めるおつもりではなかったのだと思います。声が細くなっていましたから。
「言えば、わたしの居場所がなくなると思っておりました」
「そんなことはない」
「ございます。わたしは、お二人のあいだの理由でございました」
アルベルト様は、わたしを見られました。
「理由がなくなれば、わたしはただの、薬をもらっているだけの娘になります。八年、それが怖うございました」
咳が出ました。三度。手のひらで口を押さえて、収まるのを待ちます。アルベルト様は水差しに手を伸ばそうとして、どこにあるか分からず、寝台の周りを見回されました。水差しは八年、同じ場所に置いてあります。
「クラリス様は、今週いらっしゃいました」
「クラリスが、ここへ」
「先週も。これからは直接お届けくださるそうです」
わたしは薬包を持ち直しました。紙の端が、指の汗で少し柔らかくなっています。
アルベルト様は、わたしの手の中の薬包を、初めてご覧になりました。




