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婚約者様は、あの子のお薬がどこから来ると思っていらしたのでしょう  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 摘まないのは薬のほうではありません

メルク家の門は、雪掻きが済んでおりませんでした。


轍が二本、途中で消えています。わたくしは籠を抱え直して、膝までの雪を踏みました。


メルク家は男爵家で、屋敷はヴァイデンより古く、庭は広いのに手が入っておりません。門柱の片方が傾いて、鉄の飾りが半分落ちています。


これまで、この道を歩いたことはありません。八年、薬はあの方の外套の内側に入って、この門をくぐってまいりました。わたくしはいつも温室の中で、扉が閉まる音を聞いておりました。


玄関の呼び鈴を鳴らすと、年配の侍女が出てこられました。


「ヴァイデン家のクラリスと申します。お嬢様のお薬をお届けにあがりました」


侍女は籠とわたくしの顔を二度見ます。それから中へ通してくださいました。廊下は冷えていて、絨毯の毛が薄くなっています。


侍女は、お茶をお持ちしましょうかとお尋ねになりました。結構ですと申し上げると、少しほっとしたお顔をされます。茶葉の惜しい家です。


二階の突き当たりの扉を、侍女が細く開けます。


「お嬢様。ヴァイデン家のお嬢様がお見えです」


寝台の上で、毛布が動きました。


リーゼロッテ様は、思っていたより起きていらっしゃいました。背に枕を三つ重ねて、膝の上に本を伏せて、窓のほうを向いておられます。窓には内側から布が張ってあって、隙間風を止めてありました。


部屋の暖炉には火が入っておりました。この屋敷で火の入っている部屋は、ここだけかもしれません。枕元に呼び鈴が置いてあって、紐の先が擦り切れています。夜中に何度も鳴らす方の鈴です。


「クラリス様」


声は細くて、語尾が息に紛れます。


「はじめまして、ではございませんね」


「三度、ご挨拶をいただいております」


「覚えていてくださったのですね」


膝に伏せてあったのは、植物の図譜でした。開いていたのは葉の形の頁です。


「その本は」


「父の書棚のものです。動けない冬は、これを見ております。載っている草の匂いは、どれも想像するしかありませんけれど」


わたくしは籠を寝台の脇の台に置きました。麻の小袋を出して、口の紐を解きます。


「七日ぶんと、予備を一包」


「いつもの数です」


リーゼロッテ様は手を伸ばして、薬包を一つ取られました。指が細くて、爪の色が薄い方です。包みを目の高さまで持ち上げて、しばらく見ておられました。


「この折り方」


「湿気が入りますので、口を二度折っております」


「存じております」


そう仰って、リーゼロッテ様は薬包を膝の上に置かれました。


「三年前の冬から、包み口が二度折りになりました。それまでは一度でした。同じ手の方が折っているのだと、そのころに気づきました」


部屋の中は暖かくて、薬草の匂いが少し残っています。わたくしが乾かした葉の匂いです。八年ぶんの匂いが、この部屋にあります。


「温室というのは、どのような場所でしょう」


「硝子の家です。北が石の壁で、南が硝子の屋根になっております」


「暖かいのですか」


「昼は。夜は息が白くなります」


「一度、見てみとうございます」


そう仰って、それから、無理ですねと小さく付け足されました。


「アルベルト様は、この薬がどこから来ると思っていらっしゃるのでしょう」


わたくしは答えませんでした。声に出すと、それはもう推測ではなくなります。


リーゼロッテ様は咳をされました。二度、短く。それから、掛け布の端を握って、息が落ち着くのを待たれます。


「聞いたことがございます。三年前の秋に一度だけ。あの方は、家の者が用意している、とお答えになりました」


「そうですか」


「家の者、とはどなたのことでしょう」


わたくしは、薬包の紙の端を揃えました。


「わたくしどもの温室の話は、あちらではあまりなさらないようです」


「なさいません」


リーゼロッテ様は、はっきりとそう仰いました。


「あの方がわたしにお話しになるのは、クラリス様がどれほど丈夫でいらっしゃるかということです。あの方は社交の場でも同じことを仰います。クラリス嬢は放っておいても大丈夫だから、と」


窓の布が、風で少し膨らみます。


「わたしは、それを八年聞いております」


「あの方は、強い方は放っておいてよいと思っていらっしゃるのだと思います。わたしは弱いので、放っておかれません。そのことを、ずっと申し訳なく思っておりました」


「リーゼロッテ様のせいではございません」


「ええ。ですから、申し上げることにしたのです」


「そうでしたか」


「先月、あの方はわたしの誕生日を覚えていてくださいました。花と、それから菓子を」


「存じております。わたくしが手配いたしましたので」


言ってしまってから、口の中が乾きました。この八年、一度も申し上げたことのないことです。


リーゼロッテ様は、しばらく黙っておられました。それから、膝の上の薬包をもう一度手に取られます。


「クラリス様のお誕生日は、いつでいらっしゃいますか」


「冬至の三日あと」


「あの方は、その日はどちらに」


「こちらへ伺っております。毎年」


外の廊下で、侍女が薪を運ぶ音がしました。それが遠ざかるまで、部屋の中は静かでした。


「クラリス様」


「はい」


「わたしはこの薬がないと、冬を越せません」


「存じております」


「それでも、申し上げます。わたしは八年、あの方に助けられていると思ったことがありません。助けられていたのは、あなたにです」


わたくしは籠の把手を持ち直しました。持ち直さないと、手が空いたままになりますので。


「これからは、わたくしが直接お届けにあがります」


リーゼロッテ様は、目を上げてわたくしを見られました。


「あの方には」


「お伝えいたしません。お尋ねになれば、お答えいたします」


「お尋ねになりませんね」


「たぶん」


リーゼロッテ様は、それで初めて笑われました。笑うとまた咳が出て、少し苦しそうにされます。わたくしは水差しから水を注いで、寝台の脇へ置きました。


扉を出るとき、リーゼロッテ様がわたくしを呼び止められました。


「クラリス様。次にいらっしゃるとき、束のままのものを少しいただけませんか」


「乾いた葉を、でございますか」


「匂いを覚えたいのです。図譜の頁と、突き合わせてみとうございます」


承知いたしましたと申し上げます。廊下へ出ると、侍女が下で待っておられます。階段の下まで見送ってくださいました。


「お嬢様が、あんなにお話しになるのは久しぶりでございます」


そう仰るお声が、少し震えておりました。


帰りは、雪が緩んでおりました。


轍の跡が水を含んで、歩くたびに靴が沈みます。籠は空になって軽いのに、腕のほうが重く感じます。


途中で、村の子どもが二人、雪玉を投げ合っておりました。片方が転んで、笑い声が上がります。わたくしは道の端へ寄って、その脇を通り過ぎました。


八年のあいだ、わたくしが差し出していたものを数えてみました。


薬草。詫び状の代筆。あの方が約束を違えられたときの、先方への詫び。ラウテン家の贈答の采配。リーゼロッテ様への見舞いの品の手配。そして、あの方が善い方に見えるための沈黙。


それから、あの方の仰ったことに、いいえと申し上げなかった回数。これは数えられません。


このうち、止めてよいものと、止めてはならないものがあります。


薬は止めません。あの方への腹立ちで人の冬を短くするのは、精算ではなくただの仕返しです。それに、あの葉を摘んで乾かして粉にしたのはわたくしですから、どこへ届くかを決めるのもわたくしです。


止めても誰も困らないものと、止めれば誰かの冬が短くなるもの。この二つを分けるのに八年かかりました。


止めるのは、それ以外の全部です。


この八年で、わたくしがあの方から受け取ったものを数えるほうが、ずっと早く終わります。


温室に着いたのは、日が傾いてからでした。


中は昼のうちに温まっていて、硝子の内側に滴がついています。屋根の折板は飾りで折ってあるのではありません。滴を苗の上に落とさず、縁のほうへ流すための形です。指で一つ押すと、水は溝を伝って端まで走っていきました。


焚き口に薪を三本足しました。夕方に足しておけば、夜半までは保ちます。


吊るした束を、片端から見ていきます。


十二月に括った分が、真ん中から黒くなりかけていました。束が太すぎたのです。ひもを解いて、三つに分けて括り直しました。少量ずつ束ねれば、中まで風が通ります。


括り直しながら、去年の冬のことを思い出しました。


これは誰が摘みましたか、とオルトさんはお尋ねになりました。八年、この温室のものは何度も人の手に渡っております。誰が摘んだのかを尋ねられたのは、あのときが初めてでした。


答えるのに間が空いたのは、尋ねられると思っていなかったからです。


リーゼロッテ様にお持ちする分を、別の紐で括りました。乾きのいい上の段から、香りの立つものを選びます。


括り直した束を数えました。二十三。


戸棚の紋入りの便箋は束のまま残っています。次の依頼が来ても、この束は減りません。


南の谷で温室がひとつ空くらしいと、オルトさんが仰っていました。世間話です。そうですか、とだけ申し上げました。


作業台の前に立って、紙を一枚取りました。粉を落として、端を折って、包み口をもう一度折る。八年、毎晩やってきた手です。


薬包はいつもどおり折りました。折るのをやめたのは、あの方のための言い訳のほうです。

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