第3話 摘まないのは薬のほうではありません
メルク家の門は、雪掻きが済んでおりませんでした。
轍が二本、途中で消えています。わたくしは籠を抱え直して、膝までの雪を踏みました。
メルク家は男爵家で、屋敷はヴァイデンより古く、庭は広いのに手が入っておりません。門柱の片方が傾いて、鉄の飾りが半分落ちています。
これまで、この道を歩いたことはありません。八年、薬はあの方の外套の内側に入って、この門をくぐってまいりました。わたくしはいつも温室の中で、扉が閉まる音を聞いておりました。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、年配の侍女が出てこられました。
「ヴァイデン家のクラリスと申します。お嬢様のお薬をお届けにあがりました」
侍女は籠とわたくしの顔を二度見ます。それから中へ通してくださいました。廊下は冷えていて、絨毯の毛が薄くなっています。
侍女は、お茶をお持ちしましょうかとお尋ねになりました。結構ですと申し上げると、少しほっとしたお顔をされます。茶葉の惜しい家です。
二階の突き当たりの扉を、侍女が細く開けます。
「お嬢様。ヴァイデン家のお嬢様がお見えです」
寝台の上で、毛布が動きました。
リーゼロッテ様は、思っていたより起きていらっしゃいました。背に枕を三つ重ねて、膝の上に本を伏せて、窓のほうを向いておられます。窓には内側から布が張ってあって、隙間風を止めてありました。
部屋の暖炉には火が入っておりました。この屋敷で火の入っている部屋は、ここだけかもしれません。枕元に呼び鈴が置いてあって、紐の先が擦り切れています。夜中に何度も鳴らす方の鈴です。
「クラリス様」
声は細くて、語尾が息に紛れます。
「はじめまして、ではございませんね」
「三度、ご挨拶をいただいております」
「覚えていてくださったのですね」
膝に伏せてあったのは、植物の図譜でした。開いていたのは葉の形の頁です。
「その本は」
「父の書棚のものです。動けない冬は、これを見ております。載っている草の匂いは、どれも想像するしかありませんけれど」
わたくしは籠を寝台の脇の台に置きました。麻の小袋を出して、口の紐を解きます。
「七日ぶんと、予備を一包」
「いつもの数です」
リーゼロッテ様は手を伸ばして、薬包を一つ取られました。指が細くて、爪の色が薄い方です。包みを目の高さまで持ち上げて、しばらく見ておられました。
「この折り方」
「湿気が入りますので、口を二度折っております」
「存じております」
そう仰って、リーゼロッテ様は薬包を膝の上に置かれました。
「三年前の冬から、包み口が二度折りになりました。それまでは一度でした。同じ手の方が折っているのだと、そのころに気づきました」
部屋の中は暖かくて、薬草の匂いが少し残っています。わたくしが乾かした葉の匂いです。八年ぶんの匂いが、この部屋にあります。
「温室というのは、どのような場所でしょう」
「硝子の家です。北が石の壁で、南が硝子の屋根になっております」
「暖かいのですか」
「昼は。夜は息が白くなります」
「一度、見てみとうございます」
そう仰って、それから、無理ですねと小さく付け足されました。
「アルベルト様は、この薬がどこから来ると思っていらっしゃるのでしょう」
わたくしは答えませんでした。声に出すと、それはもう推測ではなくなります。
リーゼロッテ様は咳をされました。二度、短く。それから、掛け布の端を握って、息が落ち着くのを待たれます。
「聞いたことがございます。三年前の秋に一度だけ。あの方は、家の者が用意している、とお答えになりました」
「そうですか」
「家の者、とはどなたのことでしょう」
わたくしは、薬包の紙の端を揃えました。
「わたくしどもの温室の話は、あちらではあまりなさらないようです」
「なさいません」
リーゼロッテ様は、はっきりとそう仰いました。
「あの方がわたしにお話しになるのは、クラリス様がどれほど丈夫でいらっしゃるかということです。あの方は社交の場でも同じことを仰います。クラリス嬢は放っておいても大丈夫だから、と」
窓の布が、風で少し膨らみます。
「わたしは、それを八年聞いております」
「あの方は、強い方は放っておいてよいと思っていらっしゃるのだと思います。わたしは弱いので、放っておかれません。そのことを、ずっと申し訳なく思っておりました」
「リーゼロッテ様のせいではございません」
「ええ。ですから、申し上げることにしたのです」
「そうでしたか」
「先月、あの方はわたしの誕生日を覚えていてくださいました。花と、それから菓子を」
「存じております。わたくしが手配いたしましたので」
言ってしまってから、口の中が乾きました。この八年、一度も申し上げたことのないことです。
リーゼロッテ様は、しばらく黙っておられました。それから、膝の上の薬包をもう一度手に取られます。
「クラリス様のお誕生日は、いつでいらっしゃいますか」
「冬至の三日あと」
「あの方は、その日はどちらに」
「こちらへ伺っております。毎年」
外の廊下で、侍女が薪を運ぶ音がしました。それが遠ざかるまで、部屋の中は静かでした。
「クラリス様」
「はい」
「わたしはこの薬がないと、冬を越せません」
「存じております」
「それでも、申し上げます。わたしは八年、あの方に助けられていると思ったことがありません。助けられていたのは、あなたにです」
わたくしは籠の把手を持ち直しました。持ち直さないと、手が空いたままになりますので。
「これからは、わたくしが直接お届けにあがります」
リーゼロッテ様は、目を上げてわたくしを見られました。
「あの方には」
「お伝えいたしません。お尋ねになれば、お答えいたします」
「お尋ねになりませんね」
「たぶん」
リーゼロッテ様は、それで初めて笑われました。笑うとまた咳が出て、少し苦しそうにされます。わたくしは水差しから水を注いで、寝台の脇へ置きました。
扉を出るとき、リーゼロッテ様がわたくしを呼び止められました。
「クラリス様。次にいらっしゃるとき、束のままのものを少しいただけませんか」
「乾いた葉を、でございますか」
「匂いを覚えたいのです。図譜の頁と、突き合わせてみとうございます」
承知いたしましたと申し上げます。廊下へ出ると、侍女が下で待っておられます。階段の下まで見送ってくださいました。
「お嬢様が、あんなにお話しになるのは久しぶりでございます」
そう仰るお声が、少し震えておりました。
帰りは、雪が緩んでおりました。
轍の跡が水を含んで、歩くたびに靴が沈みます。籠は空になって軽いのに、腕のほうが重く感じます。
途中で、村の子どもが二人、雪玉を投げ合っておりました。片方が転んで、笑い声が上がります。わたくしは道の端へ寄って、その脇を通り過ぎました。
八年のあいだ、わたくしが差し出していたものを数えてみました。
薬草。詫び状の代筆。あの方が約束を違えられたときの、先方への詫び。ラウテン家の贈答の采配。リーゼロッテ様への見舞いの品の手配。そして、あの方が善い方に見えるための沈黙。
それから、あの方の仰ったことに、いいえと申し上げなかった回数。これは数えられません。
このうち、止めてよいものと、止めてはならないものがあります。
薬は止めません。あの方への腹立ちで人の冬を短くするのは、精算ではなくただの仕返しです。それに、あの葉を摘んで乾かして粉にしたのはわたくしですから、どこへ届くかを決めるのもわたくしです。
止めても誰も困らないものと、止めれば誰かの冬が短くなるもの。この二つを分けるのに八年かかりました。
止めるのは、それ以外の全部です。
この八年で、わたくしがあの方から受け取ったものを数えるほうが、ずっと早く終わります。
温室に着いたのは、日が傾いてからでした。
中は昼のうちに温まっていて、硝子の内側に滴がついています。屋根の折板は飾りで折ってあるのではありません。滴を苗の上に落とさず、縁のほうへ流すための形です。指で一つ押すと、水は溝を伝って端まで走っていきました。
焚き口に薪を三本足しました。夕方に足しておけば、夜半までは保ちます。
吊るした束を、片端から見ていきます。
十二月に括った分が、真ん中から黒くなりかけていました。束が太すぎたのです。ひもを解いて、三つに分けて括り直しました。少量ずつ束ねれば、中まで風が通ります。
括り直しながら、去年の冬のことを思い出しました。
これは誰が摘みましたか、とオルトさんはお尋ねになりました。八年、この温室のものは何度も人の手に渡っております。誰が摘んだのかを尋ねられたのは、あのときが初めてでした。
答えるのに間が空いたのは、尋ねられると思っていなかったからです。
リーゼロッテ様にお持ちする分を、別の紐で括りました。乾きのいい上の段から、香りの立つものを選びます。
括り直した束を数えました。二十三。
戸棚の紋入りの便箋は束のまま残っています。次の依頼が来ても、この束は減りません。
南の谷で温室がひとつ空くらしいと、オルトさんが仰っていました。世間話です。そうですか、とだけ申し上げました。
作業台の前に立って、紙を一枚取りました。粉を落として、端を折って、包み口をもう一度折る。八年、毎晩やってきた手です。
薬包はいつもどおり折りました。折るのをやめたのは、あの方のための言い訳のほうです。




