第2話 強いからで済まされた冬
割れた硝子は、内側へ倒れておりました。
朝の光で見ると、割れ口の縁が白く粉を吹いています。石が飛んだのではありません。雪の重みと夜の冷えで、鉄の骨が一本たわんだのです。骨が動けば、その列の硝子は逃げ場をなくして割れます。
梯子を運んでくるところから始めます。
梯子は納屋の奥に立ててあって、片側の脚が短いので、下に板を一枚噛ませます。屋根の傾きは南へ落ちていますから、上ると足が滑ります。縄を腰に回し、北の石壁の金具へ結びました。
骨の直しは、押すのではなく引きます。たわんだところへ当て木を添えて、下から少しずつ起こす。半刻ほどかけて、指一本ぶん戻りました。
新しい硝子は、夏のうちに寸法を測って納屋へ入れてあります。三枚。
嵌めるときは手袋を外します。厚い革では硝子の傾きが分かりません。素手で角を押さえ、目地に麻を詰め、油を練った粘土で縁を止めていきます。ときどき息を吹きかけて温めながら進めました。
途中で粘土が硬くなりましたので、懐へ入れて温めました。
割れた硝子の破片は、木箱に集めます。
破片を数えると十一になりました。一枚が十一に割れるのは、内側へ倒れたときの割れ方です。外から石が当たれば、真ん中に穴が空いて、周りは網の目になります。
そのあと、焚き口へ回りました。
温室の床下には煙道が回してあります。北の壁の外に焚き口があって、そこで焚いた熱が床の下を通り、東の端の煙突から抜けます。夜のうちに灰が溜まると、風の通りが悪くなって、朝には温度が落ちています。
灰を掻き出すのは毎朝の仕事です。掻き棒を奥まで入れて、手前へ引く。ひと冬でどれだけ出るかというと、荷車に二台ぶんほどになります。
掻き棒の柄は樫で、握るところだけ黒くなっています。前の代の庭師が使っていたものです。
灰は麻袋に入れて、畑の隅の灰置き場へ運びます。冬の朝、この屋敷でいちばん早く起きているのが誰か、たぶんどなたも数えたことがありません。
この作業を教えてくれる人はおりませんでした。前の代の庭師が倒れた冬に、わたくしが引き継ぎました。手順は自分で数えて覚えるほかありません。
最初の冬に、三度失敗しました。焚きすぎて根を煮た日と、灰を残して朝に凍らせた日と、屋根の雪を落としそこねて骨を曲げた日です。三度目のあと、父が一言だけ、任せると仰いました。それきり、この温室の話は屋敷の食卓に出ておりません。
昼前に、ラウテン家の使者が参りました。
「奥様より、こちらをお届けするようにと」
封を開けると、伯爵夫人の細い字で、事情が書いてありました。先月の茶会をラウテン家が欠席したこと。返礼の品が届いていないこと。先方が気を悪くしているらしいこと。それから、いつものように最後の一行。
アルベルトの名で、詫び状を一通お願いできますかしら。
使者は返事を待たずに帰りました。八年、返事を求められたことはありません。
わたくしは机の引き出しから便箋を出しました。ラウテン家の紋の透かしが入った紙です。八年のあいだに、この紙で何通書いたかは覚えております。これで十七通目になります。
一通目は、あの方が狩りの約束を忘れられたときのものでした。三通目は、隣領の葬儀に遅れられたとき。七通目は、園遊の誘いに返事を出しそびれられたとき。九通目からあとは、リーゼロッテ様の見舞いを理由に約束を違えられた分になります。
ラウテン家の詫び状は、この地方では評判が良いほうです。
机の上には、去年までの控えが束ねてあります。写しを取っておくのは、同じ言い回しを二度使わないためです。同じ詫び方が続くと、先方が気づきます。
書き方は決まっています。まず先方の家の近況に触れ、次に非礼を詫び、理由は書かず、最後にあの方の言葉らしい一文を置く。あの方は「ですので」を多く使われますので、そこだけ真似ます。字は少し右に倒します。
一度、なぜご自分でお書きにならないのですかとお尋ねしたことがあります。あの方は、君のほうが上手いから、とお答えになりました。上手いのは事実です。八年書いていれば上手くなります。
便箋を広げたところで、外で車輪の音がしました。
種苗の荷が着いたのです。
オルトさんの隊商は、南の谷から北の外れまで年に二度往復します。荷が着く日はこちらで日付を数えて待ちます。雪で止まれば、その分だけ植え替えが遅れます。
「ヴァイデン様。南からの分をお持ちしました」
馬は三頭。荷を下ろすあいだ、若い者が二人、井戸のそばで湯を沸かしておりました。
隊商の長のオルトさんは、馬から降りると、まず木箱の荷札を確かめます。麻袋が四つ、木箱が二つ。荷札には産地と、摘んだ月が書いてあります。
「この荷は、先月の終わりに摘んだものです。二週間、雪で止まりました」
「助かります」
荷札は硬い紙で、雨に濡れても字が滲まないよう、油を引いてあります。産地の名。摘んだ月。運んだ隊商の名。三つ書けば、その荷がどこから来たかは誰にでも分かります。
オルトさんは荷を下ろすと、温室の中まで入ってこられました。この方は毎年二度いらっしゃいますが、いつも中を歩いて、棚と苗床を見ていかれます。
棚の三段目を見上げて、去年の束が残っていないかを確かめられます。
「屋根の硝子、直したばかりですね」
「ええ」
「粘土の縁がまだ濡れている」
それだけ仰って、次の棚へ移られます。指で葉を割って、匂いを嗅がれます。
「今年の南は雨が多くて、根が張りませんでした」
「では、来年の値は上がりますね」
「上がります。それでも、良いものを摘む家の分は変わりません」
そう仰って、乾いた束を一つ手に取られました。
「これは誰が摘みましたか」
わたくしは、答えるまでに少し間を置いてしまいました。
「わたくしです」
「そうですか」
オルトさんは束を戻して、それから、わたくしの手のほうをご覧になりました。手袋は作業のあいだ外しておりましたので、爪の脇の割れがそのまま見えていたはずです。灰の色が縦の筋に残っています。
「南の谷では、この時期の摘み手は手袋を二重にします」
「こちらでは、硝子を触りますので」
「そうでしょうね」
オルトさんは棚のほうへ戻って、乾いた束をもう一つ手に取られました。
「これは去年の、二番目に摘んだ分ですね」
「よくお分かりになりますね」
「香りの立ち方が違います。一番目は青くて、二番目は甘くなります」
そのとおりでございました。八年、この温室のものを褒めていただいたことはございます。摘んだ順まで言い当てられたのは、初めてです。
それきり、その話はなさいませんでした。荷札の控えを書き写して、代金の受け取りに判を押して、また来ますと仰って出ていかれます。
門のところで、一度だけ振り返られました。
「ヴァイデン様。この温室のものは、荷札に何と書かれていますか」
「ヴァイデン子爵領、と」
「摘んだ者の名は」
書きません、と申し上げました。オルトさんは頷きます。それ以上は聞かれません。
台所へ下りて、湯を一杯もらいました。料理人が、今夜も遅うございますねと言います。ええ、と答えました。それだけの遣り取りが、この屋敷でいちばん長い会話になる日もあります。
日が落ちてから、机に戻りました。
便箋はまだ広げたままです。紋の透かしが、灯りに透けて見えます。書き出しの一行を書いて、そこで手が止まりました。この八年、止まったことのない場所です。
先方の家の近況。非礼の詫び。理由は書かない。あの方らしい一文。
灯りの油が減っていました。継ぎ足せば、あと二刻は書けます。
わたくしはペンを置いて、机の端に肘をつきました。窓の外は暗くて、温室の硝子だけが白く光っています。今日直した一枚が、どれなのかは分かりません。明日の朝には、また灰が溜まっています。
書けば、あの方は今年も善い方のままでいらっしゃいます。
翌朝、わたくしは代筆用の便箋を、戸棚のいちばん奥へしまいました。




