第1話 八度目の冬至
今年も、あの子に付き添うそうです。
「今年もあの子に付き添う。君は強いから、一人でも平気だろう」
硝子の扉のところに、アルベルト様が立っていらっしゃいました。外套も脱がずに、夜会の礼装の肩へ雪を積もらせたまま。
わたくしは作業台の薬包を八つ、麻の小袋に入れました。粉にした葉を紙に落とし、端を折り、包み口をもう一度折ったものです。
八包。冬至から七日ぶんと、予備がひとつ。
予備は、リーゼロッテ様が夜半に咳き込まれた日のためのものです。三年前の冬に一度だけ足りなくなって、それからは必ず一包多く折ることにしております。
夜会の髪はもう結ってありました。その上から前掛けをして、手袋は外しています。葉の粉は絹につくと落ちません。
口を紐で締め、結び目を二度通します。
「お預かりください」
「これ、いつもすまないな」
あの方は袋を受け取り、外套の内側へしまわれました。中はご覧になりません。八年、一度も。
この薬がどこで摘まれ、誰の手で粉になり、どの棚で乾かされているのか。お尋ねになったことがありません。わたくしからお伝えしたこともありません。伝えれば、それは貸しになります。
お薬は足りておりますかと、一度だけお尋ねしたことがあります。四年目の冬でした。足りているよ、とあの方はお答えになりました。誰が作っているのかは、そのときも話題になりません。
「今夜は、あの子の家のほうが人手が足りないんだ。父上は領地の集まりで動けないし、医者は隣町まで往診に出ている。だから俺が行かないと、あの子の側に誰もいなくなる」
理由を三つ。あの方がお願いをなさるときは、いつも三つ並びます。
「どうぞ、お気になさらず」
「そう言ってくれると助かる。君は昔からそうだな」
わたくしは扉のほうへ半歩お譲りしました。何か申し上げようとして、やめました。申し上げることは八年ぶん考えてあります。口に出せば、この温室で交わす言葉は今夜で終わります。今夜で終わらせる理由が、まだ見つかっておりません。
あの方はわたくしの前掛けをご覧になりません。手も、その爪の脇も。
雪の匂いが少し残って、扉が閉まりました。外で馬の脚が鳴り、車輪が雪を潰す音が遠ざかっていきました。音が消えるまで、わたくしは作業台の前に立っておりました。
台の上には、葉の粉が薄く残っています。わたくしは刷毛でそれを集め、明日ぶんの紙の上へ移しました。
天井から吊るした束が、頭のすぐ上で揺れています。少量ずつしか束ねません。大きく括ると中まで風が通らず、真ん中から黒くなります。花の咲く前に摘んで、日の当たらない場所へ逆さに吊るします。
棚は三段で、上から順に古い束を下げています。冬のあいだに使う分は、夏のうちに数えて摘んでおきます。
春になれば、南から種苗の荷が届きます。荷には札が結んであって、産地と摘んだ月が書いてございます。こちらから出す分の札も、わたくしが書きます。ヴァイデン子爵領、と。それだけです。
温室の南側は硝子の差掛け屋根で、北は石の壁です。細い鉄の骨を半歩ほどの間隔で並べて、硝子を支えています。骨が一本たわむと、その列の硝子は割れます。冬のあいだ、わたくしは毎朝ここへ来て、屋根の雪を落とし、煙道の焚き口から灰を掻き出します。灰が溜まれば夜のうちに温度が落ちて、苗は根から傷みます。
これで八度目の冬になります。
温室を任されたのは、婚約の話が出るより前のことです。父は畑と商いを見ておりますので、硝子の中のことは娘の役目になりました。増えた分に名前がつくことはありません。
婚約が決まった年、あの方は温室の前で仰いました。この人と一緒なら、リーゼも冬を越せる。あのときのわたくしは、その言葉を求婚として受け取りました。
支度をして、屋敷の馬車で夜会へ向かいました。
会場は湯気が立つほど暖かく、香の匂いが濃く、楽団の弦の音が天井で反響しています。冬至の夜会は年に一度、この地方の家がほとんど顔を出します。入口で外套を預け、名を告げ、ヴァイデン子爵家の娘として広間へ入りました。
父はわたくしを見つけると、今年もよく来たと仰って、それから商いの話のほうへ戻られました。
わたくしの隣は空いています。
壁際の椅子が二脚、いつも並べて置かれます。片方に自分の外套を載せるようになったのは三年目からです。片方に物が載っていれば、並んだ二脚は空いて見えません。
八年、この位置に誰かが立ったことはありません。最初の年は、皆が「ラウテン様は」とお尋ねになりました。三年目からは、どなたもお尋ねになりません。空いている場所は、しばらくすると景色になります。
「クラリス嬢。今年もお一人で」
「ええ」
「ご立派だこと」
扇の陰で、そういう言葉が回ります。ここでは立派という言葉は、褒め言葉の形をした確認です。あの家の娘は今年も文句を言わないのか、という。
酒の匂いのする老紳士に、領地の薬草の話をされることはありませんでした。この地方でいちばん多く薬草を出しているのはヴァイデンの温室ですが、その話が向かうのは父の席のほうです。わたくしは娘として微笑み、椅子に座り、菓子の皿を受け取り、二度ほど踊りました。踊りながら、明日の朝に掻き出す灰の量を数えていました。
二度目の相手は隣家のご子息で、婚礼はいつになるのかとお尋ねになりました。話が決まってから八年になりますね、と。家の都合が整い次第と、わたくしは申し上げました。八年前から、その答えは変わっておりません。
夜半、ラウテン伯爵夫人がいらっしゃいました。
「クラリスさん。今年もありがとう」
「いいえ」
「息子が申し訳ないこと。メルク家のお嬢さんが、また具合を崩されたそうで」
「そう伺っております」
「あなたがいてくださるから、息子も安心してあちらへ行けるのよ」
わたくしはそのお言葉に礼をいたしました。伯爵夫人の仰る「あちら」がどこを指すのか、この場の全員が知っています。知っていて、誰も口にはしません。
「あの方は、婚約者より病人を選ぶ方でしょう」
「まあ。でもそれは」
「ええ。そういう方でいらっしゃるのよ」
扇が閉じる音がして、話は次の家の噂へ移りました。
「アルベルト様は本当にお優しい方ね」
背中のほうで、若い令嬢の声がします。
「弱い方のお側にいらっしゃるのですもの」
その通りでございます、と申し上げるべきでした。けれどわたくしは、麻の小袋の紐を二度通したときの指の感触を思い出しておりました。八つの薬包。乾かすのに十日、粉にするのに半日、包むのに小半時。あの方の外套の内側は、いま温かいでしょう。
広間の隅で、給仕が空の皿を下げていきます。菓子は残さずいただきました。残せば、あとで父の耳に入ります。
夜会が終わったのは、日付が変わってからでした。
馬車の中で手袋を外しました。爪の脇が縦に割れていて、その筋に灰の色が残っています。冬のあいだ、この手はどう洗っても白くなりません。
御者は何も聞きません。八年、この時刻にこの道を通っています。
窓の外を、他家の灯りが二つ三つ流れていきます。どの家も、二人で帰る時刻です。
屋敷の門をくぐるとき、御者が先に灯りをお持ちしましょうかと聞きました。わたくしは温室へ寄ると答えました。夜会の夜も、朝の焚き口の支度だけはしておかなくてはなりません。
雪はやんで、月が出ておりました。前庭を横切って、温室のほうへ回ります。
雪を踏む音が、自分の足の下だけで鳴っていました。
戻ってみると、温室の硝子が一枚、内側へ向かって割れていました。




