第10話 硝子を拭く
南の谷の温室は、北の壁がありません。
三方が硝子で、屋根の傾きも緩やかです。骨は細く、間隔も広く取ってあります。初めて中を歩いたとき、明るすぎて目が慣れませんでした。
代わりに、風が入ります。
谷は南北に細長くて、朝と夕に風の向きが変わります。夕方の風は乾いていて、それが薬草の乾きを早くします。ヴァイデンでは十日かかっていたものが、ここでは七日で乾きました。
そのぶん、香りが飛びます。
七日で下ろすと香りが強すぎて、九日置くと飛びすぎます。八日目の昼に下ろすのがいいと分かったのは、三度失敗してからでした。
ここへ来て、いちばん慣れないのは音です。ヴァイデンの温室は、冬のあいだ無音でした。雪が屋根を押さえておりましたので。谷では日中じゅう、硝子が風で細かく鳴っています。
夜は少し寂しくなります。
この温室を持っておられるのは、八十を過ぎたご老人です。
腰が曲がって、もう梯子には上れません。それでも毎朝、杖をついて温室まで来られて、椅子に座って、わたくしの手元をご覧になっています。何も仰いません。二度だけ、手つきを直されました。
二度のうち一度は、束の括り方でした。わたくしは八本ずつ括っておりましたが、ここでは六本だそうです。
もう一度は、水やりの時刻です。ここでは朝ではなく、日が落ちてから撒きます。
預かりの書面を交わしたのは、着いて十日目でした。
谷の寄合の家で、紙を一枚渡されました。預かる者の名と、生まれた年と月を書く欄があります。
「生まれ月も、書くのですか」
「書いてもらう。摘んだ月と並べて、後の者が見るのでな」
わたくしはペンを持って、それから、少し止まりました。名前を尋ねられたことはございます。生まれ月を尋ねられたのは、たぶん初めてです。
冬至の三日あと、と書きました。
書き終えて紙を返すと、ご老人はそれを読んで、ふん、と鼻を鳴らされました。
「冬の子か。道理で、乾かすのが上手い」
けれど、そう言っていただいたことを、わたくしはしばらく覚えていると思います。
ヴァイデンを出たのは、雪の解けた三月の初めでした。父は門まで出て、体に気をつけろとだけ言いました。それから、温室のことは村の若い者に教えてやってくれと。半月かけて手順を書き出して、置いてまいりました。紙にして十一枚。
書き出してみて、自分が何をやっていたのかが初めて分かりました。十一枚ぶんのことを、八年、誰にも申し上げずにおりました。
リーゼロッテ様から手紙が届いたのは、四月の初めです。
谷の療養所はここから馬で半日の場所にあります。手紙は月に二度届きます。
今度の手紙には、こう書いてありました。
薬包を、自分の手で折れるようになりました。
初めは紙が斜めになって、粉がこぼれます。十日ほどで揃うようになりました。包み口を二度折るところが、いちばん難しゅうございます。指の腹で押さえて、爪で筋をつけると、うまくいくと気づきました。クラリス様は、これをどこで覚えられたのでしょう。
読みながら、わたくしは作業台の前に立っておりました。
爪で筋をつける。誰にも教わっておりません。そのやり方に辿り着くまで、わたくしは二年かかりました。あの方は十日でお気づきになりました。
手紙の終わりのほうに、一行だけ、こうありました。
ラウテン様が、月に一度、メルク家へ薪を運んでくださるそうです。父が驚いておりました。
わたくしは、その行を二度読みます。返事は、束を吊るしてから書くことにいたしました。
返事には、爪で筋をつけるやり方は自分も二年かかったと書きました。それから、谷の風のことと、八日目の昼に下ろすことも。図譜に載っている草のうち、こちらで見られるものの名を七つ並べました。
手紙は長くなりました。八年、わたくしの手紙は用件だけでございましたのに。
オルトさんが谷へ着いたのは、四月の半ばです。
北へ上る前に、この温室へ寄られました。荷馬車を門の前に停めて、いつものように、まず中を歩いて棚を見ていかれます。
「乾きが速いですね」
「八日目の昼に下ろしております」
「なるほど」
それだけです。手順を聞いて、頷いて、次の棚へ移られます。
木箱が三つ、荷台に積んでありました。北へ出す最初の荷です。
中身は乾いた束と、種が二袋。北のどの家に行くかは、まだ決まっておりません。値がついてから決まります。
「北では、この谷のものは高く売れますか」
「高くはありません。北にも良い温室はあります」
そう仰いました。それでも荷は運ばれます。
オルトさんは荷札の束と、ペンと、小さな墨壺を作業台に置かれました。
「荷札は、あなたが書いてください。産地と、摘んだ月を」
わたくしは束を見ました。
「摘んだ者の名は」
「そこも欄があります」
「オルトさん」
「はい」
「わたくしの名を書いても、値は変わりませんか」
オルトさんはしばらく黙っておられました。それから、荷台の縁に腰を掛けられます。この方が座られるのを見たのは、初めてでした。
「変わります。初めのうちは下がります」
「そうですか」
「知られていない名だからです。三年ほどかかるでしょう」
「三年」
「私は、七年かかりました」
ペンを持ったまま、わたくしはオルトさんのほうを見ます。
「若いころ、雇われて摘んでおりました。良いものを摘んだつもりでいましたが、荷札には雇い主の名しか入りません。十年ほど、そういうことをしておりました」
「それで、隊商を」
「はい。自分の名で出したくなったので。名を書くところまでは、誰にも頼めませんでしたので」
その話を、この方はどなたかになさったことがあるのでしょうか。声の高さが、いつもと少し違っておりました。
そう仰って、オルトさんは荷台から下りられました。
「ですから、三年下がっても、書いたほうがいいと思います。これは私の考えです。あなたの荷ですから、決めるのはあなたです」
風の向きが変わって、硝子の隙間から乾いた空気が入ってきました。夕方の風です。この風が、八日で束を乾かします。
温室の奥で、ご老人が椅子に座ったまま、こちらをご覧になっています。
わたくしは、この方が一年あまりのあいだ、一度もわたくしの代わりに決めなかったことを思い出しておりました。指の割れを見ても、何も仰いませんでした。夜会の晩に来られても、行かないのですかとはお尋ねになりませんでした。南の谷の話も、置いて帰られただけです。
「マティアスさん」
初めてそうお呼びしました。
オルトさんが顔を上げられます。
「三年、こちらで待っていただけますか」
「待つ、というのは」
「値が戻るまでです。それから、そのあとのことも」
マティアスさんは、返事をなさるまでに少し間を置かれました。それから、荷札の束のほうを見て、こう仰いました。
「では、私の隊商の名も、その札に入れてください」
墨壺の蓋を開けて、ペンを浸しました。
産地。南の谷。摘んだ月。四月。それから、摘んだ者の欄に自分の名を書きました。
クラリス・ヴァイデン。
字が少し右へ倒れます。八年、そう書く癖がつきました。
札を木箱の紐に結びます。二度、結び目を通しました。木箱の上で、荷札が風に揺れています。
そのあと、温室の南の隅へ回りました。この温室の骨も、一本たわんでおります。着いた日に気づいて、そのままにしてありました。
「マティアスさん。これを直します。当て木を持ってきていただけますか」
「どこがたわんでいるのか、分からないのですが」
「手のひらを当てて、上から下へ滑らせてみてください」
言われたとおりになさいます。
「途中で、指の腹が浮くところがあります」
「そこです。そこへ当て木を添えて、下から起こします。押すのではなく、引き上げます。急ぐと隣の硝子が割れますので、半刻ほどかけます」
マティアスさんが板を骨に当てて、下から少しずつ起こされました。途中で力の向きが変わりましたので、わたくしは板の端に手を添えます。手の甲が触れました。マティアスさんは手を止めずに、そのまま引き上げられます。
「このくらいですか」
「もう少し」
半刻のあいだ、二人とも骨のほうを見ておりました。指一本ぶん戻ったところで、止めていただきます。
ご老人が杖をついて近づいてこられて、骨のところを見上げられました。
「よし」
それだけ仰って、また椅子へ戻っていかれます。
新しい硝子を嵌めて、目地に麻を詰め、粘土で縁を止めました。二人でやると、片手が空きます。片手が空くというのは、こんなに楽なことでしたか。
「三年、と申し上げましたけれど」
「はい」
「三年より早く戻ることも、ございますか」
「あります」
マティアスさんはそう仰って、それから少しだけ笑われました。この方が笑われるのを見たのは、初めてでございます。
硝子は粘土の粉と手の脂で曇っております。わたくしは布を絞って、内側から拭きました。
硝子を拭くと、外の光がまっすぐ入ってきました。




