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第2話:ばあちゃんの知恵と、白いぬか

山本昇太が借りた長屋の、狭い一室。

布団の上に横たわるあやは、浅い呼吸を繰り返しながら、だるそうに自分の脚をさすっていた。

あやの脚は、触れると妙に冷たく、指で押すとその痕がしばらく戻らない。

(これ、完全に脚気の初期症状だ……)

ばあちゃんから聞いたことがある。江戸わずらい、またの名を脚気。この時代の贅沢病であり、同時に適切な栄養を摂らなければ命を落とす国民病だったはずだ。

「あや、ちょっと冷たいけど我慢してね」

そう言って部屋を飛び出す昇太の後ろ姿を、あやは複雑な目で見送る。

昇太の毎日は、端から見ていても過酷そのものだった。夜明け前からおにぎり屋の仕込みに追われ、日中は声を張り上げて屋台を営む。それだけでも男手一つでは相当な重労働のはずなのに、昇太は店を閉めた後も、休むことなくあやの看病に全ての時間を注いでいた。

江戸の生活は、蛇口をひねれば湯が出るわけじゃない。

昇太は疲れ切った体に鞭打ち、共有スペースの井戸へと向かっては、何度も何度も重い桶を引き上げて水を汲む。さらに、貴重で高価な薪をパチパチと燃やし、きっちりと湯を沸かして手ぬぐいを煮沸消毒するのだ。

「失礼するよ」

温かい湯に浸した手ぬぐいを絞り、あやの泥に汚れた体を優しく拭っていく。

衣服の隙間から見えたその体躯に、昇太は思わず胸を突かれた。

十五歳だと本人は言っていたが…年頃の割に、あまりにも細く、華奢だった。あばら骨の形が浮き出るほどのガリガリな体に、この少女がどれほどの過酷な環境を生き延びてきたのかが詰まっている気がした。

だが、看病されるあやの瞳には、次第に深い「不信感」が混ざり始めていた。

(……なんで。なんで、ここまでしてくれるのだろう?)

江戸の常識として、行き場のない娘をわざわざ銭を払って買い受け、長屋に連れ帰るなど、目的は「お手付き(夜の相手)」にする以外にあり得ない。

だが、昇太は毎日、おにぎり屋の激務でクタクタになりながら、貴重な薪や水を自分のために使い、嫌な顔一つせず、ただひたすらにしびれた脚をマッサージすることだけに集中している。

(毎日、あんなに大変な思いをして私を養ってくれているのに……どうして、何も求めてこないの?)

もし下心が目的なら、もっと早く、強引に手を付けてしまえばいい。それだけの恩義も権利も、この旦那様にはあるはずなのだ。

なのに、いやらしい手つきはおろか、指一本触れてこない。

(不気味だ……。これほどの見返りのない献身なんて、この世にあるはずがない。それとも……自分があまりにも汚らしくて、女としての魅力がないから、手を出す気にもなれないの……?)

そんなあやの内心のドロドロとした葛藤など露知らず、昇太の脳内は「いかにしてビタミンB1を摂取させるか」で一杯だった。

それからの日々、昇太はあやに「玄米や麦を混ぜた飯」を食べさせ続けた。

長屋の住人たちは、そんな二人を見てヒソヒソと噂し合う。

「おいおい、あの店主、せっかく囲った娘にあんな粗末な飯(玄米)を食わせてやがるぜ。夜の相手もさせずに毎晩足を揉んでるらしいし、風変わりなやつだな」

当時、玄米は貧乏人の代名詞。周りからは虐待や奇行のように思われていたが、昇太にとってはこれこそが最高の脚気に対する特効薬だった。

数日が経ち、ビタミンが身体に行き渡るにつれて、あやの肌にわずかに赤みが戻ってきた。

ただ、毎日お湯で体を拭いているせいで、今度は肌が乾燥でカサカサになり始めていることに昇太は気づく。

(現代の化粧水なんてないしな……。あ、そういや…ばあちゃんが昔言ってたっけ)

ばあちゃんが若い頃、まだ世の中に今ほどたくさんの化粧品がなかった時代、田舎の労働で手が荒れ、乾燥を防ぎ肌の保湿するには「研いだ米のぬか」を使っていたという話を思い出したのだ。

「あや、これ塗ってみて」

昇太が差し出したのは、おにぎり用の米を研いだ際に出た、真っ白な米ぬかだった。

「これを少し水に溶いて、肌に馴染ませるんだ。田舎のばあちゃんから聞いただけなんだけど、今より肌が乾燥しなくなると思うよ」

あやはおっかなびっくり、言われた通りに白いぬかを自分の腕や頬に薄く伸ばしてみる。

すると、驚いたことに、カサついていた肌がしっとりと潤い、吸い付くような柔らかさを取り戻していった。

毎日のおにぎり。身体の煮沸清拭。毎晩の足のマッサージ。そして、おばあ様の知恵だという米ぬかでの保湿。

どれもこれも、昇太が毎日ヘトヘトになりながら、あやのために尽くしてくれた結晶だった。

(……ああ、やっぱり、私は最低だ)

米ぬかでしっとりとした自分の手をじっと見つめながら、あやは猛烈な罪悪感と、それを遥かに上回る圧倒的な「恩義」に胸を締め付けられた。

この旦那様を「下心がある」と疑い、手を付けられないことに「魅力がないのか」と不満を覚えた自分の心の浅ましさが恥ずかしかった。

このお方は、自分の身を削り、周りから何を言われようと、ただ私が元気になることだけを願って、血の滲むような努力をしてくれているのだ。

(私は、このお方に命を救われた。この溢れるほどの恩義、どうやって返せばいいの……?)

まだ何もできない、ただのタダ飯喰らい

どうやって恩を返そう、そう悩むあやをよそに昇太は今日も世話を焼く…

2話目を読んでいただきありがとうございます。

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