9話 偽りの神
あの一夜の暴走の直後、俺を蝕んでいた魔物の怨嗟――あの悍ましいノイズは、いつの間にか綺麗さっぱり消え去り、耳の奥には静寂が戻っていた。
だが同時に、あの凄まじい全能感も失われていた。内側から肉体を突き破りそうだった回路の感触はどこにもない。どうやら、あの魔石は回路を一時的にブーストするだけの「使い切りの劇薬」だったらしい。
(生成されたんじゃない。強引にこじ開けられただけか……)
失った対価は、サリアの背中に刻まれた大きな火傷の痕。あまりにもリスクが高すぎる。今のままもう一度魔石を喰らえば、次こそ完全に理性を失い、俺はサリアをこの手で殺してしまうだろう。
だから、俺は修行の方法を切り替えた。
ただ肉体を壊すだけの無茶は、もうサリアが許してくれない。これからは、あの暴力を「意識を保ったまま制御する」ための、極限の精密魔力コントロールが必要だった。
俺は宿の裏手で、静かに目を閉じて呼吸を整える。
第一の工程。【神経加速の最適化】。
これまでは脳の信号を強引に魔力で増幅させ、ただ肉体を速く動かすことだけを求めていた。だが、それだとあの魔石の暴走に脳の処理が追いつかない。前世の知識を総動員し、脳から全身へ伸びる神経経路を流れる「電気信号」そのものを魔力で保護し、完全に掌握する。長く持たせる必要はない。次に魔石を喰らい、それが体内で完全に消化し尽くされるまでの数分間、脳のブレを無くし、確固たる「安定した意識」を維持し続けることだけが目的だ。
第二の工程。【魔力の隔離と融合】。
魔石を喰らった時、俺の肉体は外から入ってきた異物に対して拒絶反応を起こした。それが暴走の原因だ。ならば、入ってきた魔力をすぐに身体へ流さず、体内の特定の部位(たとえば胃の腑の裏)に一時的に隔離する「見えない檻」を肉体の中に構築する。
隔離した魔力が、俺の血肉に馴染んで大人しくなるのを待ってから、少しずつ、細胞の一つ一つへと融解させていく。
「……よし」
目を開けると、視界が以前よりも澄んで見えた。
相変わらず魔法としての出力はできない。しかし、俺の肉体という「器」の密度は、一年前とは比べ物にならないほど強固に、そして静かに研ぎ澄まされつつあった。
その頃。俺たちが目指す「聖都ルミナス」の巨大な大聖堂では、一人の少年が狂信的な歓声の中心にいた。
「おお……! 雷の神、ライゼン様! どうか我らに、不浄なる者どもを打ち払う天罰を!」
白装束を纏った数千人の信徒たちが、石畳に額を擦り付け、涙を流して一人の少年を仰ぎ見ている。
神壇の上に傲然と座を構えるのは、ライゼンだった。
その身体には、かつて村の守護兵が着ていた素朴な衣服はない。信徒たちから献上された、眩いばかりの黄金が装飾された服に身を包み、その指先からは青白い電撃が退屈そうにパチパチと弾けている。
「おい、次の供物(魔力源)はまだか? 祈る暇があるなら、もっと街の魔力を集めてこい。この俺の神威を維持して欲しければな」
ライゼンは冷酷に言い放った。
その時、大聖堂の分厚い扉が勢いよく蹴り開けられた。
「そこまでだ、偽りの神め! 聖都の治安を乱す不届き者として連行する!」
突入してきたのは、現地の領主が派遣した鉄砲持ちの騎士たち、十数名。彼らは一斉に武骨な鉄筒(銃火器)を構え、ライゼンに銃口を向けた。
だが、ライゼンは眉一つ動かさない。
「引き金を引いてみろよ。その玩具が、俺に届くならな」
「構うな、撃てぇ!」
轟音と共に、一斉に放たれる鉛の弾丸。魔法使いでも、心臓に受ければ即死する死の道具。
しかし――次の瞬間、大聖堂全体が真っ青な光で埋め尽くされた。
「『雷網』」
ライゼンが軽く指を振るっただけで、彼の前方に緻密な電撃の網が展開された。放たれた弾丸はすべてその網に捕らえられ、凄まじい熱量によって一瞬でドロドロの鉄屑へと融解し、床にボタボタと落ちていく。
「な、何だと……!? 最新式の銃撃を、素手で……!?」
驚愕に顔を歪める騎士たち。彼らの常識では、これほどの銃撃を瞬発的に防御されるのは想定外だった。
「終わりだ」
ライゼンが手を突き出すと、網を形成していた雷が一気の奔流となり、騎士たちを飲み込んだ。
「ぎゃあああああっ!!」
激しい閃光と爆音。騎士たちは一瞬で意識を失い、煙を上げながら床に転がった。手にした鉄筒は、熱で原型を留めていない。
「おおお! 神の雷だ!」「奇跡だ……!」
それを見た信徒たちは、より一層の狂信に目を血走らせ、狂ったように祈りを捧げ始めた。
村を出たあの日、彼はイグニスという「本物の怪物」に圧倒的な力の差を見せつけられ、そのプライドを完全にへし折られた。努力することを諦めた彼は、イグニスのいないこの聖都へ逃げ込み、「神」として祭り上げられることで、歪んだ承認欲求を満たしていたのだ。
かつて村の模擬戦でアルスをねじ伏せた時の、どこか青臭かったプライドは消え失せている。今の彼を突き動かしているのは、「自分が一番でなければならない」という肥大化した強迫観念と、力への溺愛だけだった。
「……フン、誰も俺には届かない。ここにさえいれば、俺が一番の神だ」
黄金の衣服の奥で、ライゼンの瞳がギラリと不気味な光を放った。
さらに数週間後。
長く過酷な旅の果てに、俺とサリアはついに「聖都ルミナス」の巨大な白亜の城門の前に辿り着いていた。
行き交う巡礼者たちの熱気と、どこか排他的で張り詰めた空気。
門をくぐり、大通りへと足を踏み入れたその瞬間、前方からけたたましい鐘の音と共に、純白の騎馬列が進軍してきた。群衆が一斉に道を開け、地面に跪いていく。
「……っ、アルス、あれ!」
サリアが息を呑み、俺の腕を強く引いた。
群衆の視線の先、白馬に跨がり、傲慢に周囲を見下ろしながら進む一人の教祖。
眩い黄金の衣服。その背後で、陽光を浴びて不規則にパチパチと爆ぜる、青白い火花。
アステリアの村で、泥にまみれて一緒に訓練をしていた、あの素朴な少年の面影はどこにもなかった。
そこにいたのは、狂信者たちの崇拝を喰らい、歪に肥大化した「偽りの神」――ライゼンその人だった。
跪く人々の影に隠れながら、俺は静かに視線をレーザーのようにライゼンへと固定した。
ポケットの奥で、俺の拳が自然と固まる。
再会の時は、思っていたよりも早く訪れた。




