88話 鏡
爆風と土砂が晴れゆく森の中で、激突の余波が木々を大きく揺らしていた。
先端を粉砕された土槍の残骸と、霧散する紫電の残光。その中央で、アルスの漆黒の右腕と、ミースが構える土槍の柄が硬直していた。
ミースの瞳から光は消え失せ、無表情な粘土細工のようになっている。だが、その頬には先ほど流した涙の痕が、痛々しく乾き切らずに残っていた。
(……ここで殺しておくべきか)
アルスの脳裏に、冷徹な理性が問いかける。
この少年は教団の「道具」だ。生かしておけば、いずれ仲間や自身を脅かす凶威になりかねない。
答えは明白だ、だというのに、なぜか踏み込めない。
首筋の紋様を赤く光らせ、絶叫しながら「戦いたくない」と泣いていた少年の顔が、アルスの胸の奥を激しく掻き乱す。他人に敷かれたレールの上をただ歩まされ、自我すら踏みにじられて死んでいく理不尽。それは、前世の自身と重なった。
「……っ!」
アルスはミースの動きを止めるため、踏み込み、手を伸ばした。その動きは、圧倒的な速度だった。だが――
ぬるり、と。
ミースの身体がすり抜けるように傾き、アルスの掌が空を斬った。間髪いれず、アルスは鋭い連撃を繰り出す。右拳、左の払い、間合いを詰めての肘打ち――そのすべてが、完璧な速度と軌道を描いて叩き込まれる。
しかし、ミースはそのことごとくを紙一重でかわした。
首を傾げ、最小限の体捌きで滑るように間合いを外す。それどころか、アルスの攻撃の隙を見逃さず、死角から鋭い手刀をアルスの関節孔へと叩き込んできた。
(……速い!? いや、違う……!)
アルスの目が見開かれる。
ただかわされただけではない。足首の捻り、腰の旋回、肩甲骨の連動――それは、アルスが先ほど見せた踏み込みの技術とまったく同一の「無駄のない運動連鎖」だった。
(まさか……俺の動きを真似したのか……? いや、だが……)
身体操作の理を理解している熟練者なら、軌道を読むことは可能だ。
だが、次の瞬間。
ミースの手元で、再生成された土槍がけたたましく鳴り響いた。 空間を震わせる異様な高周波振動。槍の先端から分子レベルの揺らぎが伝播し、圧縮された土石が鋭利な刃へと変質していく。
(――なッ!?)
それは、アルスが先ほど打ち込んだ『超振動』の波動そのものだった。
ドッ!!
「ガ、ハッ……!?」
受ける猶予すら与えられず、超振動を纏った槍柄の打撃がアルスの側腹を削り取った。衝撃波が内臓を直接揺らし、鮮血が口から飛散する。アルスは大きく後方へと吹き飛ばされ、地面を転がる。
「ぐ、ふ……っ!」
膝をつき、吐血しながらアルスはミースを睨みつけた。
(間違いない……! こいつ、俺の技術をその場で模倣している……!)
ミースは多属性の天才などではなかった。教団の手によって見せられ続けたあらゆる魔法使いや戦士の技術を「完全記憶」し、寸分違わず「模倣」する能力。それも、交戦しながらリアルタイムで自らの肉体に最適化・上書きしていく戦慄の学習能力だ。
「……ふぅ……っ」
アルスは懐から3個の魔石と魔力結晶を取り出し、奥歯で容赦なく噛み砕いた。
ゴク、と飲み下した瞬間、過剰な魔力が全身を焼き切る勢いで噴出する。アルスはその狂暴なエネルギーを全身に閉じ込める。
「死ね! アルスを殺せ!!」
信徒の幹部が叫ぶ。呪印の強制命令を受け、ミースが音速を超えた突撃で肉迫する。
アルスは回避を捨てた。 超振動を帯びた槍身がアルスの左胸を深く穿ち、背中へと突き抜ける。激痛が脳を刺すが、アルスは刺さった槍を左腕で強引に固定し、間合いをゼロにした。
「おおおぁぁぁッ!!」
咆哮とともに、顔面目掛けて右腕を振りぬく。ミースは容易に首をひねり避けるが、狙いはもとより顔ではない。
赤く発光する首筋の呪印だ。
ドゴォン!!
超振動をまとった一撃が、ミースの首筋の肉ごと呪印を根こそぎ削ぎ落とした。
「あ……がッ!?」
激痛にミースが悲鳴を上げる。即座に少年の体内から治癒魔法が発動し、傷口は瞬時に塞がった。しかし、そこに刻まれていた呪縛の回路は完全に消滅していた。
糸が切れた人形のように、ミースの膝が折れる。瞳に光が戻り、大粒の涙が流れ落ちる。
「……はぁ……っ……はぁ……ッ……」
胸の槍を引き抜き、傷口を魔力で塞ぎながら、アルスは静かに問う。
「……戦いたいわけじゃないんだろ? もうやめろ……」
「……うん。……でも、僕はこのために生まれたんだ……命じられた通りにするしかない……僕は、意思なんて持っちゃダメなんだ……」
その言葉が、アルスの胸の奥深くに突き刺さった。
脳裏に浮かぶのは、前世――佐藤健一として生きていた四十年間。 親や周囲の顔色を伺い、会社に言われるがまま己の感情を殺し、敷かれたレールの上だけを歩いて、何者にもなれずに死んでいった愚かな己の姿。自分の意思ではなく、他人の期待や言葉を優先し続けた空虚な人生。
(……俺も、同じだった。いや今も……)
アルスは大きく息を吐き出すと、戦闘体勢を解いた。右腕の構えを下げ、無防備に立ち尽くす。
(……俺は、何も変わっていなかった)
前世から何ひとつ変わっていなかったのだ。失敗を受け入れず、周りの期待や生まれた理由にこだわり、思考を停止して立ち止まっていたのは――ミースではなく、自分自身だった。
「……ふざけるな」
アルスは絞り出すように呟いた。
「生まれた理由なんてどうでもいい!誰かの期待のために動くだと……!?道具としてじゃなく、お前自身はどうしたいんだ!!」
「わ……わからないよ……ッ!僕は……自分で考えたことなんて一回もないんだ……!」
「じゃあ今考えろ!!お前の人生だ、自分で決めろ!!」
アルスの魂からの叫びが、森に響き渡る。 全てが自分に返ってくる。
「な、何をしている『ミメシス』!!」
信徒の幹部が狂乱し、新たな符を取り出す。
「欠陥品め! 取り押さえろ! 直接新たな呪印を刻み直してやる!!」
凶器を手にした男たちが、無抵抗のミースへと一斉に押し寄せようとした――その瞬間。
「邪魔するな!……失せろっ!!」
ドッ……ズォオオオオオンッ!!!!
世界が揺れた。
アルスが右腕を振り抜いた瞬間、圧縮された超振動の波動が爆発した。空間そのものが歪み、押し寄せていた信徒たちは悲鳴をあげる暇すら与えられず、一瞬で跡形もなく粉砕された。森の木々が一区画丸ごと吹き飛び、圧倒的な破壊の痕跡だけが残される。
凄絶な静寂。
アルスは血塗れの姿で少年の前へと歩み寄る。
「……アルス。僕は……これからどうすればいいの……?」
消え入りそうな声で問うミースに対し、アルスは背を向けたまま、影のように低く濁った声で吐き捨てた。
「知らん。……自分で考えろ」
(……俺に聞くな。俺だって……何も分かっチャいないんだからな)
自分自身を嘲笑うように心の中で呟き、アルスは振り返ることもなく、血を流しながら森の奥へ歩き出す。
サリアを失い、心にぽっかりと開いた暗い穴。ただ死に向かって彷徨うだけの背中。
ミースに放った「どうしたいんだ」という問いかけは、そのままアルスの胸に激しい痛みを伴う楔として突き刺さっていた。だが、今の彼にはその答えを探す気力すら残っていなかった。
しかし――闇の中へ消え去る直前。
アルスは足を止めることなく、肩越しに低く、掠れた声を残した。
「……道具のミメシスはもう死んだ。お前はミースだ。……お前なら、自分の道を見つけられる……」
それだけをボソリと言い捨てると、アルスは今度こそ暗闇の向こうへと姿を消していった。
残されたミースは、目を見開き、去っていくアルスの背中を濡れた瞳で見つめていた。
血と泥にまみれ、崩れそうなほどボロボロの背中。けれど、その最後に残された言葉は、自分を道具として縛り続けていた呪縛を完全に粉砕し、凍りついていた心臓に小さな、確かな熱を点火させていた。
「……ミース……。僕の名前は……ミース……」
噛み締めるように己の名を呟き、溢れ出す大粒の涙を汚れた袖で強く拭った。
「……うん……っ! 僕、探してみるよ……!」
少年の口から漏れたのは、もう他人に言わされた命令の言葉ではなかった。
己の意思で立ち上がり、自分の足で一歩を踏み出すための、強い誓いだった。




