86話 優しい怪物
深い森の中を、二つの影が並んで歩いていた。
ミースは険しい山道であってもまるで平地を歩くように軽やかだったが、少し進むたびに足を止めた。
「見て! すごく綺麗な花が咲いてるよ」
木漏れ日が落ちる群生に駆け寄り、ミースは瞳を輝かせて小さな花を見つめる。
「……そんなものを見て何が楽しい」
アルスは鬱陶しそうに鼻で笑った。右腕に巻きつけた汚いボロ布の位置を確かめながら、関心なさげに前を見据える。
「だって、綺麗なものは綺麗だし……この世界には、こんなにも素敵なものが溢れてるのに、楽しまないのは損だよ」
屈託のない笑みを向けてくるミース。その澄みきった眼差しに、暗い絶望を抱えているアルスは言葉を失い、苦々しく口を閉ざすしかなかった。
やがて、昼が過ぎた頃にミースのお腹が小さく鳴った。
アルスは溜め息をつくと、道中で拾った木の実と干し肉を削り、火にかけた小さな小鍋で簡単なスープを仕立てた。
「ほら、食え」
木製の器を受け取ったミースは、ふうふうと息を吹きかけながらスープを口に運ぶ。一瞬でその顔がパッと華やいだ。
「おいしい……!」
「……ただの干し肉のスープだ。普通だろ」
「ううん。すっごくおいしいよ。アルスが作ってくれたからかな」
心底嬉しそうにスープを味わうミースの姿に、アルスの胸の奥がほんのわずかに揺れる。心を閉ざし、力だけを求めて歩いていたはずの旅路に、少しずつ柔らかい時間が混ざり始めていた。
「ねえ、アルス」
「なんだ」
「誰かと一緒にご飯を食べるのって、こんなに温かいんだね」
ふふっ、と顔をほころばせるミース。その無垢な言葉と響きに、アルスは胸を突かれたような衝撃を覚える。絶望の底に落ちて以来、自分の名前がこれほど優しく、温かく呼ばれたことなど一度もなかった。
――その時だった。
サァッ……と森の空気が凍りつく。
木々の奥から、血に飢えた狂暴な大型の魔物が数頭、姿を現した。鋭い爪を立て、咆哮を上げて二人へ襲いかかってくる。
「チッ……俺の後ろに」
アルスが右腕を庇うように左拳を握り締め、前へ出ようとした――次の瞬間。
ミースが弾かれたようにアルスの前に立ち塞がった。その背中は小さく震えているが、一歩も引こうとしない。
「来ないで……お願いだから!」
ミースがすっと右手を掲げた。
掲げられた手から解き放たれたのは、大気を歪め、世界の理すら書き換える圧倒的な破壊の連鎖だった。
天を破り、紫電の束が魔物たちに直撃する。
『――ギャアアアッ!?』
不意を突かれた先頭の魔物が耳を裂く悲鳴を上げ、その巨躯が雷光に穿たれて激しく身悶えた。苦悶に顔を歪ませた魔物たちの隙を逃さず、今度は渦を巻く劫火が襲いかかる。
『グオッ、ガァアアッ!!』
灼熱の炎に包まれた魔物たちは焦熱の地獄に狂乱し、自らの身を焦がしながら逃げ惑おうとする。だが、その退路を放たれた風の刃が無慈悲に裁断した。音もなく疾走する真空の刃が硬質な皮膚を容易く切り裂き、血飛沫とともに肉塊を削ぎ落としていく。肉を削がれ、骨を剥き出しにした魔物たちの足元から突如として岩の槍が突き出し串刺しにする。
ガツンッ、と重厚な骨砕音が響く。生え揃った巨大な岩槍が下腹部から背へと貫通し、魔物たちは宙で串刺しにされたまま、血の泡を吐いて痙攣した。
そして最後は、全域を呑み込む絶対零度の氷結。
絶叫すら凍りつかせる極寒の波動が奔ると、貫かれ、焼き尽くされ、削ぎ落とされた魔物たちの肉体ごと、空間そのものが一瞬で蒼白い結晶へと閉じ込められた。幾重もの異なる極大魔法が、まるでひとつの呼吸のように途切れず流れるように展開されていく。直後、みしりと亀裂が入った氷塊は、中に閉じ込められた魔物もろとも、粉塵となって跡形もなく砕け散った。
「な……ッ!?」
アルスは目を見開いた。
幾多の属性を完璧に束ね、自在に操る圧倒的な絶技。咆哮を上げて襲いかかってきたはずの怪異たちは、叫びを上げる猶予すら奪われ、一瞬にして肉片すら残さず消滅していた。
「多属性魔法……? こいつは……」
戦慄するアルスを余所に、静寂が戻った途端、ミースはその場にぽつんと佇み、深く顔を伏せた。消滅した魔物たちの残骸があった地面を見つめ、掠れた声で呟く。
「……ごめんなさい」
アルスは胸のざわめきを抑えながら、少年に歩み寄った。
「……なぜ謝るんだ?」
「本当は、魔物でも傷つけたくないんだ」
「じゃあ、なんで戦った?」
ミースはぎゅっと自分の手を握りしめ、胸の苦しさを吐き出すように絞り出した。
「だって……アルスに、こんな思いしてほしくなかったから……」
差し出された温もりを守りたいという咄嗟の情動。それが、ミースに力を振るわせた最大の理由だった。
「それにね……悪いやつは、倒さなきゃいけないんだ」
「悪いやつ?」
「そうだよ……みんなが、教えてくれたんだ」
ミースは哀し気な瞳を上げ、アルスを見つめた。
「この世には、神様に仇なす、悪いやつがいるんだって。『見つけたら、絶対に倒さなきゃいけない』って、みんなが言ってた」
神に仇なす悪。アルスは鼻で小さく息を吐き捨てた。どこの宗教か知らんが典型的な倫理観だ、世間知らずな子供に刷り込み、言うことを聞かせているのだろう。
「……神様ね。そんな大義名分を間に受けて、わざわざ手を汚す必要はない」
「でも……約束、なんだよ。みんなを失望させたくないんだ。僕にとってみんなは家族だから」
そう答えるミースは己の手のひらを見つめ、ひどく苦しそうに顔を歪めた。
「でも……本当は誰も倒したくないんだ。神様に仇なす悪いやつでも、殺すのは嫌なんだよ……」
教え込まれた不条理な使命と、目の前の存在を守りたいと願う純粋な優しさ。その狭間で引き裂かれそうになりながら立つ少年を、アルスは無言のまま、ただ静かに見つめることしかできなかった。




