85話 森の子
アルス失踪から1週間後。
深い森の中。
木々の隙間から差し込むわずかな陽光すら、今のアルスには鬱陶しかった。アルスの目的はただ一つ。教団の拠点を潰し、そこに眠る膨大な魔石を奪い尽くすこと。すべては、圧倒的な力を手に入れるためだ。サリアを守れなかったのは、己が弱かったからだ。二度と何も失わない絶対的なパワーさえあれば、この胸を刺すような咎めも絶望も、すべて叩き潰せるはずだった。黒く石炭のように硬化・変質してしまった右腕には、ボロ布をきつく巻きつけ、人目の触れないよう覆い隠している。破滅的な渇望に突き動かされるまま教団拠点を目指して森を進んでいたアルスだったが、ふと、その足が止まった。
違和感。
本来なら凶暴な魔物が蠢くはずの森の深部において、そこだけが異質に静まり返っていた。木々の枝には小鳥が集まり、足元にはリスが遊んでいる。すぐ傍らの草むらでは、本来なら警戒心の強いはずの鹿が、のんびりと草を食んでいた。魔物の禍々しい気配は綺麗に霧散し、まるでそこだけが穏やかな時を止めているかのようだった。
そして、その動物たちの中心に、一人の少年が立っていた。年齢は十五、六歳ほど。病的とも思えるほど透き通るような白い肌をした、華奢で中性的な面立ちの少年だ。少年は差し出した指先の上に小鳥を乗せ、足元に咲く小さな花を愛おしそうに見つめながら、撫でるように鹿の頭に手を添えていた。荒んだ世界の中で、そこだけがあまりにも浮世離れした温かな光景。アルスは布を巻いた右腕をかばうように引き、警戒を交えて低く問いかけた。
「……人間か?」
声に反応して、少年がゆっくりと振り返る。
大きな瞳がアルスを捉え、少年は警戒する風もなく、ふわりと微笑んだ。
「こんにちは。」
あまりにも普通で、拍子抜けするほど朗らかな挨拶。
血と煙の匂いを纏う異形の男を前にして、少年には怯える様子すら一切なかった。アルスは小さく眉をひそめる。
「……こんな所で何をしている」
「あのね、迷っちゃったんだ」
少年は困ったように眉を下げた。どうやら仲間とはぐれてしまったらしい。気丈に振る舞ってはいるものの、その表情にはかすかに心細さが滲んでいた。
今の自分に関わる資格などない。そう思い込もうとしながらも、アルスは忌々しそうに息を吐き捨てると、面倒そうに尋ねた。
「……どこに行くつもりだ」
少年は首を横に振る。
「……分からない。みんなが『行く』って言ったから、ついて来ただけだったから」
「自分の行き先も分からないのか」
アルスは短い溜め息をついた。背を向けてそのまま去ることもできたはずなのに、すがりつくような少年の視線に足を止めてしまう。アルス自身の目的地は教団の拠点を潰すことだが、その道中には人間が立ち寄る大きな街がある。
「……名前は」
「ミメシス、だよ」
「……呼びにくいな」
アルスは舌打ち混じりに吐き捨てると、少年の顔を見下ろした。
「俺について来い、ミース。この先に大きな街がある。そこまで連れて行ってやるから、あとは勝手にしろ」
「ミース? 僕の名前、ミースになっちゃったの? ……まぁ、いいか! ありがとう!」
一瞬で少年の――ミースの表情がぱっと明るくなった。
そこから、奇妙な二人の旅が始まった。
ミースは歩き方に無駄がなく、険しい森の中でも足元を乱すことすらなくアルスの後ろをついてきた。確かな身体能力の高さが見え隠れしていたが、それ以上に浮世離れした世間知らずさが目立った。
街道の脇で露店を構える行商人を見かけた際、空腹を覚えたミースが無邪気に並べられた果実へ手を伸ばそうとした。
「美味しそう……」
「おい、待て」
盗人と間違われて騒ぎになりかけた瞬間、アルスが割り込み、強引にミースの首根っこを掴んで引き戻した。アルスは懐から銅貨を取り出すと、驚く行商人へ渡し、果物をいくつかまとめて買い取ることで事なきを得る。
「……勝手に人の物に手を出すな」
「ごめんなさい。お金を払わないといけないんだったね……」
世間の常識すら怪しいミースに、アルスは頭を抱えた。
またある時は、森の開けた街道沿いで、数人の柄の悪い野盗たちが旅人を囲み、追い詰めている場面に遭遇した。
それを見たミースは、警戒も無しに真っ直ぐ前へ歩み出てしまった。
「待って! そんなひどいことしちゃダメだよ!」
「あぁん? なんだこのガキ……」
野盗の首領格が鬱陶しそうに、ミースへ向けてギラリと光る大鉈を振り下ろそうとした――
――ズドンッ!!
衝撃音とともに、野盗の男の顔面が爆発したかのように歪み、文字通り吹き飛んだ。
ミースの前に立ちはだかったのは、アルスだった。ボロ布を巻きつけた右腕は動かさず、左拳一発で男の鼻骨と顎を粉砕し、木々の奥へと撃ち飛ばしたのだ。
「……鬱陶しいゴミ共が」
「なっ……なんだこの野郎!!」
激昂した残りの野盗たちが一斉に長剣や斧を構えて襲いかかってくる。
アルスは退くことなく一歩踏み込むと、襲いかかる刃を左の掌底ひとつで弾き飛ばし、そのまま相手の喉元を強烈に突き穿った。背後から迫る別の男の攻撃を避け、首筋を左手で掴み上げ、強引に地面へと叩きつける。
――ガツンッ!!
頭骨が割れる鈍い音が響き、野盗は即死した。残された男たちは、目の前の男が放つ圧倒的な殺気と残虐性に顔を蒼白にし、武器を放り出して脱兎のごとく逃げ出していく。
「ヒッ……ひぃぃぃっ!! 化物っ!」
アルスは逃げる背中を追うことすらせず、血に濡れた左手を無造作に服で拭うと、固まっているミースに向き直った。
「言ったはずだ、勝手に飛び出すなと」
「……助けてくれたんだね。ありがとう」
ミースは瞳を輝かせてアルスを見上げていた。命を拾った旅人が血に染まるアルスに怯えながらも感謝を告げようとしたが、アルスはミースの手首を強く引いてその場を立ち去った。
関わりを避け、自分の心は死んだと言い聞かせながらも、気付けばこうして少年の危うさを放っておけずに救ってしまっている。
水場を見つければ、手で水を汲んでミースに飲ませる。
「……飲め。水筒の分は減らすな」
道端の木の実を指差し、淡々と教える。
「そっちは毒だ。こっちの赤い方なら食える」
夜が訪れ、森が冷え込むと、アルスは無造作に枝を集めて火を起こした。温かな火の粉が夜闇に舞い上がる。
「あたたかいね」
ミースが嬉しそうに火に手をかざす。その無邪気な笑顔を見つめながら、アルスは無言で燃える薪を見つめていた。
「アルスは、優しいんだね」
「……余計なことを喋らず、黙って寝ろ」
そっぽを向いて冷たく突き放す言葉。
しかし、ミースへ向けられたアルスの瞳から、かつての刺々しい狂気が一瞬だけ引き破られていた。
暗い絶望の泥濘の底で、「守る」という行為をすべて諦めたはずのアルス。
だが、無意識のうちに伸ばされたその手は、自分でも気づかないほど小さな――しかし確かな「誰かを慈しむ感覚」を取り戻し始めていた。




