82話 ゼファキス
「――死ぬ準備はできているか?」
荒野の冷気を一瞬で氷結させるような、ゼファキスの透きとおるほど冷酷な声が響いた。
全身から血を噴き出させ、肉塊と化した部下たちの無念を背負うライゼンは、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「ハッ! その必要はねぇよ、クソ魔族!!」
瞬間、ゼファキスが動いた。
右手の細く白い指先を、まるで埃を払うかのように軽く一振りする。
そこに魔力の集約を示す予兆も、大気の震えすらもない。
(――ッ!?)
ライゼンの研ぎ澄まされた直感が、全身の毛泡を逆立てて死を告げた。電光石火の速度で身体を右へと強引に捻り、地を蹴る。
バツンッ――!!
何かが大気を切断する不気味な無音の衝撃。
直後、遅れてライゼンの左肩から、鮮血の奔流が吹き上がった。
「ガッ……!?」
着地と同時にめり込むような激痛が走り、膝が激しく震える。左肩の肉が斜めに大きく裂け、血が止めどなく溢れ出していた。
「……空間断裂だ」
ゼファキスは一歩もその場から動かず、感情の欠落した声で事もなげに言った。
「防御不可能な絶対の切断だ」
『空間そのもの』を直接切り離している。物理的な装甲も、魔力による防護障壁も一切の意味をなさない。
「へっ……なるほどな。大したことねぇ仕掛けだぜ」
ライゼンはダラダラと溢れる左肩の血を右手の掌で無理やり圧迫し、痛みに歪む顔を強烈な笑みで上書きした。
「発射の瞬間、てめぇの手の動作さえ捉えりゃ……俺が領域の外へ跳べば当たらねえ!」
「ほう。この圧倒的な差を前にして、まだ戦う気があるか。面白い……では、試してみるがいい」
ゼファキスの指先が、再び滑らかに動いた。
だが、今回はライゼンの動作の方がわずかに早かった。
――バリバチイィィィッ!!!!!
全身へ、雷をまとわせ強制的に速度を上昇させる。ゼファキスの細い指先の初動を肉眼で捕捉した瞬間、ライゼンは爆風のような踏み込みで横へと跳躍していた。
バシュッ……!!!
ライゼンが直前に立っていた地面に、深さ数メートルに及ぶ一本の一直線な「空間の亀裂」が縦に走った。
ライゼンはすでに、その攻撃軌道から二メートル横の地点へ着地している。肩の傷口から血を撒き散らしながらも、瞳に鋭い光を宿した。
(よし……! 奴の手元と視線さえ完璧に捕捉していれば、どんなに強力な斬撃だろうが避けられる……!)
縦横無尽に地を駆け巡りながら、思考を高速で回転させる。
ゼファキスは毎度、微妙に角度と高さを変えて空間を切り取っている。ならば、引きつけてかわし、そのまま懐へ潜り込んで超高出力の雷撃を叩き込む――!
「遊びはここまでだッ! 喰らいやがれ……『インドラ』ぁぁぁッ!!」
ライゼンは右手に魔力を高圧縮させ極太の雷を、ゼファキスの胸元へ向けて至近距離から解き放った。荒野を焼き尽くすほどの閃光が世界を真っ白に染め上げる。
だが――ゼファキスの目前で、空間がフッと鏡のように歪み、不気味な黒い「穴」が開いた。
ライゼンの解き放った至高の雷撃は、吸い込まれるようにその穴の中へ消え去り――。
次の瞬間、ライゼンの【真後ろ】の空間から飛び出した。
――ドゴォォォォォォンッ!!!!!
「がぁぁぁぁぁッ……!!!?」
背後から叩きつけられたのは、間違いなく自分が解き放ったはずの雷撃だった。
背中の皮肉が焼き焦げ、超高圧の衝撃波が肺の空気を力任せに吐き出させる。ドサリと膝をつき、全身の筋肉が激しく痙攣して激痛を訴えた。視界が赤く明滅する。
機動力を引き上げるために全身へ雷を纏わせていなければ、間違いなく今の攻撃で内臓ごと消し飛ばされて終わっていたところだった。
「……攻撃を『転送』した」
ゼファキスは哀れむような眼差しで、倒れ伏すライゼンを見下ろした。
「私に向けられた攻撃は、その着弾地点の空間を別の座標へと繋ぎ直す。どこへ転送するかは、私の自由だ。次は、あそこに集まっている、お前の部下たちの頭上へ送ってやってもいい」
ライゼンは膝をついたまま、血走った眼で後方を一度だけ振り返った。
そこには、前線基地の土塁の影から、武器を握りしめて自分を見つめるカルダンやソル、そして兵士たちの姿があった。彼らはライゼンを置いて逃げることなどできずに援護する隙をうかがっていたのだ。
(ここに奴らを置いておけば、俺の攻撃がそのままあいつらに……!)
「全員……下がれッ!! 全軍、今すぐ退避しろッ!!」
ライゼンは喉を擦り切らせながら、腹の底から怒鳴り散らした。
「ライゼン様ッ!! 我らも……我らも共に戦います! 隊長をお一人で死なせるわけには――!」
「誰が死ぬかッ! これは『命令』だッ! とっとと行けぇぇぇッ!!」
死線の中でも衰えないライゼンの咆哮に、兵士たちは涙を呑み、歯を食いしばりながら後方へと駆け出した。
ゼファキスはその光景を追おうともせず、ただ興味深そうに眺めていた。
「フ……愚かな人間どもの仲良しごっこか。命を投げ打って守る価値など、彼らにはないというのに」
ゼファキスは愉悦に満ちた笑みを口元に浮かべた。その超然とした姿を、ライゼンは血反吐を吐き出しながら不気味そうに睨みつける。
兵士たちの気配が遠のいたことを確認すると、ライゼンは無理やり膝を伸ばし、再び地を蹴った。
止まらない。足を止めれば、その瞬間に空間ごと細切れにされる。
左右へ、前後へ、時には低く地を誇り、時には跳躍を交えながら、一定のリズムをあえて破壊したランダムな超高速移動。
――バシュッ! バシッ! ズバッ!
それでも、逃れられぬ「空間の刃」がライゼンの肉体を刻んでいく。
太ももから血が吹き出し、脇腹の肉が削げ、腕の皮膚が裂ける。確実にライゼンの生命力と運動能力が削り削ぎ落とされていく。
――幾度かの傷を負った時、ライゼンは戦慄とともに悟った。
(……おかしい。俺の速度をもってしても、完全に外せてねぇ……!)
ゼファキスは単に攻撃を放っているのではない。ライゼンの超高速移動の「最後の数センチの着地予測」を完璧に読み切り、逃げ切ったと確信した瞬間のその先へ、続けざまに空間断裂を放っていたのだ。
「そろそろ疲れてきたか?」
ゼファキスが静かに問いかける。
「私は指一本動かしているに過ぎないが……お前は随分と息が上がり、酷く消耗しているようだな」
「……ハッ! うるせぇな……! これくらい、俺にとっちゃあ準備運動みたいなもんだぜ……!」
ライゼンは、全身を自らの血で赤く染め上げながら笑ってみせた。
ゼファキスの瞳に冷ややかな光が宿り、滑らかに手が動かされた。空間そのものが歪み、ライゼンの胴体を真っ二つに断ち切ろうと迫る。
だが――今度のライゼンは、逃げなかった。
被弾を受け入れ、全身を雷化させ最速で真正面からゼファキスの懐へ突っ込んだのだ!
ズバァァァッッ!!!!!
切り込んできた空間の刃。ライゼンの 脇腹の肉が大きく切り裂かれ、大量の鮮血が花のように荒野へ飛び散る。しかし、ライゼンは止まらない。 痛みを強い意志で塗り潰し、雷光を纏わせた右拳をゼファキスの顔面へ叩き込もうと突き出した――!
――だが、拳が届くコンマ一秒前。
ゼファキスの身体が、まるで歪んだ残像を残すように、数メートル後方の空間へと「跳躍」して消えていた。
空を切ったライゼンの拳が、虚しく大気を爆ぜさせる。
「ハァ……ハァ……ガハッ……!」
ライゼンはその場に膝をつき、自身の左脇腹に開いた傷を押さえた。指の隙間から、温かい血液が留まることなく溢れ出て地面に大きな水たまりを作る。
数メートル先で、ゼファキスが優越感に満ちた笑みを浮かべてライゼンを見下ろしていた。
「命を懸けた、一か八かの特攻攻撃すら、この私の前では虚無に消える。……哀れだな、ライゼン。もう諦めたらどうだ? そのボロボロの体で、見苦しく地に這い回りながら無様に逃げ出してみろ。少しは命が延びるかもしれんぞ?」
ゼファキスの嘲笑が荒野に響く。
ライゼンは傷口を強く力任せに圧迫し、血の混じった唾を地面に吐き捨てると、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、絶望など微塵もなかった。ただひたすらに熱く、濁りのない力強い光が宿っている。
「……そうだな。昔の俺なら、迷わずそうして無様に逃げ回ってただろうよ」
ライゼンは血塗れの顔で、ニィと野性味溢れる笑みを浮かべた。
「だがな……今の俺には、果たすべき約束がある。ここで逃げるわけにはいかねぇんだよ……!」
ゆっくりと立ち上がるライゼンの右手に、再び不屈の青白い雷が、静かに、消えない灯火のように灯り始めた――。




