81話 泥
アルス失踪1日前。
魔界と人界を繋ぐ「魔界の門」。その周囲を囲む漆黒の城塞は、太陽光すら拒む禍々しい黒光りを放ち、異形の魔物が不吉な悲鳴をあげて旋回していた。生きとし生けるものの命を絶つ、極限の死地である。
巨大な門の深淵から、周囲の温度を一気に氷点下まで叩き落とす悍ましい魔気を纏った影が、ゆっくりと這い出てきた。
身長は優に三メートルを超える。
全身を覆うのは、神聖さすら漂わせる「黒い魔石のマント」。その身からはぬめりとした泥が溢れ出し、地を這うたびに強烈な死臭が広がっていく。
顔面には目も、鼻も、口すらない。滑らかな頭部にただ一つ――血のように赤く光る巨眼だけが埋め込まれ、冷酷に世界を見下ろしていた。
魔王軍四天王、イザークである。
城塞の影の下、もう一人の四天王ゼファキスが、優雅に腕を組みながら退屈そうに声をかけた。
「どうだ、イザーク。私がお前の目的地であるアジールとやらまで、空間を繋いで運んでやってもいいが?」
ゼファキスの声音にあるのは同胞への配慮などではなく、単なる暇潰しの発案に過ぎない。
だが、イザークののっぺりとした魔石の顔面の下半分に、突如としてガラスが割れるような禍々しい「亀裂」がピキリと走った。その不気味な開口部から、異形の巨体にそぐわない透き通るような美しい声が漏れ出す。
「クク……不要だよ、ゼファキス。道中、人間の肉の甘みと絶望の味を確かめながら進むのが、私の愉しみだ。檻から出されたばかりの餓えた獣には、相応の餌が必要だろう?」
イザークは冷淡に提案を蹴ると、たった一人で前線基地の敷地内へと足を踏み入れた。
当然、城塞を監視していた最前線の兵士たちがそれを見逃すはずがない。
「つ、ついに……本物の化け物が出てきたぞッ!!」
「全軍、包囲陣形を組め! ライゼン様が来られるまで一歩も引くなッ!」
副官カルダンの怒号とともに、瞬く間に数百人の精鋭部隊がイザークを完全に包囲した。だが、イザークの赤い眼球に焦りの色は一切ない。
一斉に放たれた無数の魔導矢と、魔導砲の弾幕。
イザークはその巨体からは想像もつかないほど無駄のない洗練された舞のような身のこなしで紙一重でかわし、あるいは手のひらから生み出した泥の障壁で冷徹に弾いていく。
「とろいねぇ、人間。その程度の速度で、この私を捕らえられると思ったか?」
イザークが爆発的に地を蹴った。一瞬で最前線の重装騎士の死角へと滑り込む。
ドゴォッ!!!
生々しい肉体と骨の破砕音が荒野に響き渡った。
イザークの振るった一撃は、鉄製の厚い胸甲ごと騎士の胴体を歪ませ、背中に突き抜けるほどの衝撃で即死させた。一人、また一人。絶望的な速度差のもと、人間の精鋭たちが紙屑のように宙を舞い、命を散らしていく。
「あ、悪夢だ……! 背後を取れ! 奴の隙を突くんだ!」
勇気ある剣士たちが、犠牲を払ってイザークの背後から肉薄した。しかし――それこそが地獄の入り口だった。
「あ、あぎゃあああッ!? 足が、俺の足がぁぁッ!!」
戦士たちが足を踏み入れたのは、地面に滴り落ちていたイザークの「黒い泥」だった。
泥に触れた瞬間に装甲が溶け、足の肉が一瞬にして黒く腐り落ちる。悲鳴をあげる間もなく、全身の水分と生命エネルギーを根こそぎ吸い尽くされた戦士たちは、ボロボロと崩れ落ちる干からびた黒いミイラへと変貌した。
「ひ、ひぃッ!?待て! 奴の周囲に浮遊しているあの黒い泥に触れるな!」
「距離を取れ! あれはただの泥じゃない、触れれば即死する呪いだ!」
カルダンの血を吐くような怒号が響く。
兵士たちは泥の軌道を死に物狂いで避けながら、決死の連携でイザークへと肉薄する。
「おおおおおッ!!」
一人の重戦士が、自らの命を投げ出す捨て身の突撃でイザークの腕を拘束した。イザークはその男の頭部を冷酷に砕き潰すが、その一瞬生じた隙を、精鋭剣士が見逃さなかった。
キィィィンッ!!!
結晶剣から放たれた炎を纏う鋭い一閃。人間の意地と覚悟が、イザークの「黒い魔石のマント」の隙間――その脇腹へと深々と一太刀浴びせることに成功したのだ!
「やったか!?」
歓声が上がった、その刹那。
「クク……、あはははははっ!!」
イザークの顔面の亀裂から、狂気と愉悦に満ちた美しい声の笑いが炸裂した。
剣士が斬り裂いた傷口。そこから噴き出したのは赤い血などではなく、ドロドロと蠢く高密度の「黒い泥」だった。
泥は意志を持つ生き物のように傷口から跳ね出すと、一瞬にして剣士の腕、そして首元へと絡みついた。
「あ、あぎゃあああああああッ!?!?!?」
絶叫が響き渡る。腕から全身へ這い上がった泥は、ものの数秒で剣士の生命力を根こそぎ吸い尽くし、ただの崩れやすい土塊へと変えてしまった。
「素晴らしいねぇ! 命を賭した人間の『絶望』の味は、いつ食べても最高だ!」
ケタケタと笑い狂うイザークの姿は、まさに地獄から這い出てきた悪魔そのものだった。傷をつけること自体が、周囲の人間を巻き込んで全滅させる初見殺しの罠。その絶対的な権能の前に、精鋭たちの間に瞬く間に絶望と恐怖が伝染していく。
――バリバリバリバリッ!!!!!
その絶望に染まりきった空間を強烈に引き裂くように、天から凶悪な青白い雷撃が降り注いだ。
「――てめぇ、いい気になってんじゃねえぞ、泥野郎がァッ!!」
凄まじい衝撃波とともに着地したのは、ライゼンだった。
だが、彼が急行した時にはすでに、命をかけて陣地を守っていた精鋭たちの半分以上が、物言わぬ黒い土塊へと変えられた後だった。凄惨な死体の山と、怯える兵士たちの姿を視界に収めたライゼンの瞳に、凄まじい怒りの炎が燃え上がる。
「ほう。少しは骨のある人間が来たか」
ライゼンが放った超高出力の「インドラ」の直撃を受け、体の左半分をドロドロに吹き飛ばされながらも、イザークはせせら笑うように泥を蠢かせた。黒い魔石のマントと漆黒の巨躯が、一瞬で元通りに再生されていく。
「俺の目の前でこれ以上好き勝手やらせるかよ……! 灰も残さず消し飛ばしてやる!」
「威勢がいいねぇ、小僧。だが、お前のその美味そうな生命力も、すぐに私の泥の糧となるのだよ」
ライゼンが全身に激しい紫電を纏わせ、地を蹴ろうとした――まさにその瞬間。
ライゼンとイザークの間の空間が、まるで薄いガラスが割れるかのように不自然に歪み、途途もない音を立てて亀裂を生んだ。
「――そこまでにしてもらおうか、イザーク」
空間の裂け目の奥から不意に現れたのは、先ほどまで城塞の陰にいたはずの四天王ゼファキスだった。空間そのものを歪める圧倒的な圧の前に、ライゼンの足が反射的に止まる。
「チッ……! もう一人来やがったか……!」
ゼファキスは冷徹な視線をライゼンに向け、優雅に片手を差し向けた。
「イザーク、お前の餌はアジールと言ったはずだ。こいつは私が担当するライゼンだ。さっさと進むがいい」
「クク、なるほどこいつがライゼンか。ゼファキス、見る目があるじゃないか。……惜しいが仕方ないね。約束は守るよ」
イザークは顔の亀裂から美しい声で笑いながら、ライゼンを無視してアジールの方向へ向かって悠然と歩き去っていく。
「待ちやがれッ!」
激昂したライゼンがイザークを追おうと地を蹴ったが、その眼前の空間がゼファキスの魔力によって完全に断絶・遮断された。透明な断層に阻まれ、ライゼンの身体が弾き返される。
「お前の相手は、この私だ。……時間が惜しい。死ぬ準備はできているか?」
冷酷に言い放つゼファキスの手元で、空間が不気味な歪みを増していく。
前線の兵士たちの悲鳴、去り行くイザークの背中、そして目の前の絶対的な空間の支配者。
ライゼンと四天王ゼファキスによる、絶望的な死闘の幕が上がろうとしていた。




