78話 閑話:小さな盾と、風の泥棒猫
これは、彼ら天才たちがまだ子供だった頃の話。
始まりの里、アステリア。
陽光が眩しく降り注ぐ修練場では、魔法の才能を開花させた十歳前後の子供たちが、互いに声を掛け合いながら泥まみれになって汗を流していた。
その日の過酷な修行が一段落した直後のことだ。
まだ幼さの残るライゼンは、修練場の隅にある木陰に腰を下ろし、嬉しそうに鼻歌を交じえて懐から小さな包みを取り出していた。
「へへ、修行の後のこれだけが楽しみなんだよな」
包みを開けると、中から現れたのは、今朝がた母親から手渡されたばかりのおやつだった。大麦の粉に少量の蜂蜜と干しぶどうを混ぜ込み、香ばしく固く焼き上げた素朴な焼き菓子。庶民の子供にとっては、これ以上ないご馳走だ。
ライゼンはごくりと唾を呑み込み、さあ食べようと大きく口を開けた。
――その瞬間、一陣の、あまりにも不自然で鋭い突風が彼の目の前を吹き抜けた。
「ぶふっ!? ……あ、あれ?」
口をあんぐりと開けたまま、ライゼンは自分の両手を見つめた。
ない。つい一秒前まで確かにそこにあったはずの、愛おしい焼き菓子が、包み紙ごと綺麗さっぱり消え失せている。
「ない……!? 俺のおやつがねぇーーーッ!?」
事態を把握した瞬間、ライゼンの全身からバチバチバチッ!!! と激しい青白い雷が噴出した。怒りのあまり髪の毛を逆立て、周囲に凄まじい放電を撒き散らすライゼン。そのあまりの剣幕に、近くで休憩していた他の子供たちが「ひぃっ!?」と悲鳴を上げる。クモの子を散らすように距離を取る。
「おほほほ! ずいぶんと、とろくさい雷ね。あんまり間抜けに口を開けているから、てっきり私におやつを差し出してくれているのかと思ったわ!」
頭上から響いた高飛車な笑い声に、ライゼンはビキビキと額に青筋を浮かべて見上げた。
木の上。細い枝に軽々と腰掛け、奪い取った焼き菓子を指先で器用に弄んでいるのは、同じ十歳のウェンディだった。風の魔法を覚醒させたばかりの彼女は、その機動力を悪戯に使うことにすっかり味を占めている。
「てめぇ、ウェンディ……ッ!! いい度胸じゃねえか、ついに俺のおやつにまで手を出しやがったな!」
ウェンディのおやつ泥棒は、アステリアの子供たちの間ではすでに悪名高く、有名だった。足の速い彼女に目をつけられたら、普通の子供ではひとたび防ぐ術がない。
「これも修行の一環よ! 悔しかったら捕まえてご覧なさい!」
ウェンディは木の上からひらりと飛び降りると、荒野の風そのもののような軽やかさで修練場を駆け抜けた。
怒り狂ったライゼンは地を蹴り、全力で彼女を追いかける。しかし、ウェンディは自らの身体に風の加護を纏わせ、急激な方向転換を繰り返しながらライゼンを翻弄した。
「おほほほ、とろいとろいわ! とろい雷〜!」
「てめぇっ!! 魔法を使われないと思って調子に乗りやがって……! 死なない程度の雷なら、ここで使ってもいいんだぜ!?」
完全にブチギレたライゼンが、走りながら右手を突き出す。バチィッ!!! と鋭い雷撃の矢がウェンディの背中を目がけて放たれた。
だが、ウェンディは後ろを振り返りさえせず、手から放った風のクッションでその衝撃をあっさりと側方へいなしてみせる。
「あーら、危ないじゃない。でも、そんな直線的な攻撃、私の風には当たらないわよ?」
「う、うるせえええッ!!」
子供の遊びの範疇を、ウェンディの煽りが完全に踏み越えさせてしまった。
ムキになったライゼンは、十歳児の感情の制御限界を超えてしまう。その瞳から理性が消え、纏う雷が異常な輝きを放ち始めた。
「お前が悪いんだからな……! この泥棒猫がァッ!!」
ライゼンが両手を突き出した瞬間、バリバリバリと、凄絶な轟音が響いた。
それは、この年齢の子供が扱っていい出力では到底なかった。ウェンディを中心に、彼女の逃げ道を完全に塞ぐようにして、複数の巨大な高出力の雷が撃ち出されたのだ。
「え……っ!?」
さすがのウェンディも、その圧倒的な光と熱量を前にして驚愕に目を見開いた。
ただの楽しい追いかけっこのつもりだった。それが、いきなりの本気の殺傷攻撃へと変貌したのだ。風を練る暇さえ与えられない。完全に出遅れたウェンディは、足がすくんで動きがもたついた。
逃げられない。直撃する――!
ウェンディは恐怖のあまりぎゅっと目をつむり、顔の前を両手でガードすることしかできなかった。
――だが、予測された激痛と衝撃は、いつまで経っても彼女を襲わなかった。
その代わりに聞こえたのは、肉が激しく灼けるドスゥンという重苦しい衝撃音。
「え……?」
ウェンディが恐る恐る目を開けると、視界のすべてを、圧倒的に巨大な何かが遮っていた。
突如現れた壁、それはガウルだった。
彼はいつの間にかウェンディの前に立ちはだかり、彼女をすっぽりと庇うようにして、ライゼンの放った複数の雷撃をその大きな背中で、文字通りすべて受け止めていた。
まだ完全に防御魔法をコントロールできていなかったのだろう。ガウルの纏っていた大地の障壁は砕け散り、彼の背中からはジュウジュウと嫌な音を立てて白煙が立ち上っていた。肉の焦げる、生々しい臭いが周囲に漂う。
「あ、あ……」
ライゼンは、自分の手から放たれた雷の威力と、それを生身で受け止めたガウルの姿を見て、一気に我に返った。顔面を真っ青に染め、つい本気を出してしまったことに激しく焦り始める。
周囲で見ていた子供たちも、あまりの出力の高さと、ガウルの凄惨な背中の有様に、息を呑んでざわつき出した。
しかし、ガウルは痛みに顔を歪めることすらなく、ゆっくりと振り返った。その大柄な身体から放たれる圧倒的な静けさが、修練場を支配する。
「ウェンディ。腹が減っていたのか。だが、仲間から盗むのは良くない。おやつを返すんだ」
ガウルは静かに、諭すような声で言った。背中の火傷の痛みなど、最初から存在しないかのような平然とした態度。
「魔法は、仲間を助けるために使うべきだ」
その言葉は、十歳のガウルがすでに持っていた、揺るぎない「盾」としての信念だった。
ウェンディは、彼の痛々しい背中と、真っ直ぐな瞳に気圧され、バツが悪そうに「ふん」と顔を背けた。
「……別にお腹なんか空いてないわよ。おやつも、ちゃんと返すわ」
ウェンディは怯えているライゼンの前へと歩み寄り、ぶっきらぼうにおやつを突き出した。
「ほら、返すわよ。……悪かったわね」
ライゼンは一刻も早くこの場から離れたい一心で、差し出された包みをひったくるように受け取ると、ガウルの背中を恐る恐る見つめた後、一言も発せずに脱兎のごとくどこかへ走り去ってしまった。まわりの子供たちも、それに続くように散っていく。
静かになった木陰で、ウェンディは安堵と恐怖の反動からか、膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
そんな彼女に、ガウルがのっそりと近づいてきた。
「なによ……! 私はいいから、その背中、早くサリアに治療してもらいに行きなさいよ!」
怒鳴り散らすウェンディの声は、心配の裏返しで細かく震えていた。
しかしガウルは、自分の背中の怪我など気にも留めず、懐からゴソゴソと別の包みを取り出した。それは、彼が自分の母親からもらっていた、全く同じ大麦の焼き菓子だった。
ガウルはそれを目の前でバキッ、と無造作に二つに分けると、大きくて不格好な片方の破片を、ウェンディの目の前へと差し出した。
「腹が減ってるんだろ? 半分やるよ」
「だから、いらないって――」
「奪うより、二人で分けたほうが美味いぞ」
ガウルはニヤリと、悪気のない、どこまでも少年の不敵な笑みを浮かべた。
ウェンディは拒絶しようとして口を開きかけたが、彼の大きな手のひらに乗った黄金色の焼き菓子と、その優しい眼差しを見て、言葉を飲み込んだ。
拒む気力を無くした彼女は、小さくため息をつきながらそれをひったくるように受け取り、小さく口へと運んだ。
サクサクとした心地よい歯応えのあと、大麦の香ばしさと、控えめな蜂蜜の甘さ、そして干しぶどうの酸味が口いっぱいに広がる。
「……確かに、美味しいわね」
ウェンディは小さく呟いた。今まで盗んだおやつとは、全く違う温かい味がした。
「そうだろ」
ガウルは満足そうに笑い、自分の分の半分を豪快に口へと放り込んだ。
「ガウル! 何してるのーっ!!」
その時、ただならぬ騒ぎを聞きつけた里の警護兵に連れられて、治癒魔法を扱う少女、サリアが血相を変えて荒野を駆けてきた。
「また無茶をして! 背中が大変なことになってるじゃない、今すぐ見せなさい!」
「いや、これは大したことは……」
「大したことあるわよ! ウェンディも、ガウルを困らせたら駄目よ!アルスといい、私の同級生には問題児しかいないの!?」
サリアの怒声に縮こまる二人の頭上で、アステリアの豊かな風が、優しく吹き抜けていた。
大切な者を護るという男の生き様は、この十歳のあの日から、何一つ変わっていなかったのだ。




