77話 ウェンディの居場所
アルス失踪の10日前。
ガルバディアを去ったウェンディが向かったのは、峻険な山々をくり抜いて築かれた堅牢なる要塞――アジールだった。
活気と温かみに満ちた開拓の都。その中心部にあるアジール領主館の応接室は、夜が更けているにもかかわらず、些か賑やかな声に包まれていた。
「――というわけよ。あんな野蛮で無礼な男たちのいる場所に、この私がこれ以上身を置いておく理由はないでしょ? ベッドの手触りも悪ければ、夜中の行儀も最悪。ガルバディアの貴族というのは、脳みそまで鉄錆でできているに違いないわ!」
ウェンディはふん、と美しい顎を反らし、魔導衣服の袖を優雅に払いながら事も無げに説明を締めくくった。一国の精鋭である魔導兵を深夜に返り討ちにし、そのまま国を捨ててきたという凄絶な話のはずだが、彼女が手にする紅茶のカップは微かにも揺れていない。
「ははは! 相変わらずだなウェンディ! ガルバディアの精鋭とやらも形無しだ。お前の寝込みを襲うなんて、そもそも自殺志願者と変わらないじゃないか! 命拾いしたな、その兵隊たちも!」
豪快な笑い声を上げて身を乗り出したのは、岩石のように頑強な肉体を持つアジールの「王」、ガウルだった。彼は本気でおかしそうに腹を抱え、大きな身体を揺らしている。
「ガウル……笑いごとではないわ! 淑女の寝室へ土足で踏み込んでくるような無頼漢たちよ? ポイントがズレてるわ!」
「ああ、すまない、すまない。ついお前が平然としすぎているものだからさ」
ガウルが苦笑しながら頑丈そうな頭を掻いていると、応接室の扉が遠慮がちに開いた。入ってきたのは、かつて成人の儀で覚醒に失敗し、村を追放された過去を持つ少年、ルカだった。今ではガウルに保護され、このアジールで風の魔法に目覚めつつある彼は、大きなトレイに山盛りの焼き菓子を載せて運んできた。ウェンディがやってきたと聞いて、厨房で急いで作ってきたのだろう、まだ湯気が立っている。
「あの、ウェンディさん、お久しぶりです! ガルバディアからずっと移動してきたんですよね? お腹空いてませんか? これ、みんなで新しく耕した畑で獲れた芋で作ったお菓子なんです!」
「あらルカ、気が利くわね。いただくわ」
ウェンディが微笑みながら焼き菓子をつまむと、素朴ながらもほくほくとした甘みが口いっぱいに広がった。長旅の緊張が少しだけ解けるような優しい味に、彼女の目元が自然と和らぐ。
「美味しいわ。火の通りが均一だわ」
「へへ、わかりますか? 風の魔力で熱の対流を均等に回してみたんです」
「悪くない着眼点ね。筋はいいわ」
「ありがとうございます!」
ルカは嬉しそうに顔をほころばせた。ガウルはゆっくりと真面目な顔に戻り、大きな背中を椅子の背もたれに預けた。その瞳には、仲間を無条件で受け入れる深い包容力と、確かな覚悟が宿っている。
「……まあ、冗談はさておき。色々と嫌な思いをしたみたいだな。だが、ここなら安心だ。当然だが、アジールはいつでもお前を歓迎する。」
「助かるわ」
ウェンディはふっと視線を落とし、小さく、だが心からの笑みを浮かべた。
ガルバディアの夜闇で見せた突き放すような寂寥感は、この温かな岩の都の空気と、気心の知れた戦友の笑顔によって、綺麗に霧散していくようだった。
しかし、二人の間の沈黙は長くは続かない。ガウルは組んだ大きな両手の指先をじっと見つめ、地響きのような低い声で本質を切り出した。
「けど、笑いごとじゃないのは確かだ。ガルバディアの貴族どもがそこまで魔法使いを敵視し始めてるってのは、『魔力革命』の悪影響だ。回路を持たない一般人でも、魔法結晶さえ武器に埋め込めば強力な魔法が使える時代だ。馬鹿な特権階級が『魔法使いなんて不要だ、自分たちの兵隊だけで十分だ』って勘違いするのも無理はない」
その言葉を聞いたルカが、小さく息を呑んだ。魔導具の普及が、まさかウェンディを襲うほどの悪意に繋がっているとは思わなかったのだ。
ウェンディはカップをソーサーに戻し、頷く。
「その通りよ。道具が人を選ばなくなった途端、あのお偉方ときたら自分たちが世界の主役に返り咲いたと錯覚したのね。イグニスという絶対的な抑止力が消えたことも拍車をかけているわ。制御できない化け物に怯えるより、制御できる結晶兵器を揃えた方がいい――浅はかだわ」
「あ、あの……!」
ルカが思わず声を上げた。二人の視線が自分に集まるのを感じて少し気後れしたが、ルカは真っ直ぐに二人を見つめた。
「それって……すごく恐ろしいことなんじゃありませんか? 僕たちみたいに、もともと回路がなくて追放された人間からすれば、結晶の魔導具はすごくありがたいものです。でも、それを偉い人たちが『魔法使いを殺すための武器』として使い始めたら……せっかくの便利な道具が、ただの凶器になっちゃいます」
ガウルはふう、と重い息を吐き出し、窓の外に広がるアジールの夜景へ視線を向けた。岩壁に沿って点々と灯る松明の光は、この過酷な異世界で必死に生きる無能者や難民たちの営みそのものだ。
「ルカの言う通りだな。魔導具の普及で世界が便利になること自体は、悪いことじゃない。現にこのアジールだって、結晶技術のおかげで開拓効率が跳ね上がっている。だが、その便利さが人の傲慢さを育て、戦火を広げる道具になるなら本末転倒だ。ガルバディアが魔法使いの排除に動いたということは、近いうちに他の大国やクライン王国でも似たような動きが出るかもしれない」
「クライン王国にはアルスとサリアがいるわ。あそこが簡単に崩れるとは思えないけれど……問題は、このアジールよ」
ウェンディの言葉に、ガウルは鋭く目を細めた。傍らのルカもハッとしたように表情を強張らせる。
「アジールは『回路を持たない者』が集まり、俺の魔力で魔法を覚醒させた者もいる。魔力革命で調子に乗った大国から見れば、ここは『制御できない未知の魔法使いの大量生産工場』に映るだろうな」
「そんな……僕たちはただ、ここで静かに生きていきたいだけなのに……」
ルカが悔しそうに拳を握りしめる。かつて無能と蔑まれた自分たちを受け入れてくれたこのアジールが、大国からの脅威に晒されようとしている現実に、胸が締め付けられる思いだった。
「ええ。だからこそ、私がここへ来たのよ、ガウル。それにルカ、そんなに怯える必要はないわ」
ウェンディの唇の端が、不敵な弧を描く。彼女の瞳の奥に、裏社会のネットワークを単身で牛耳っている義賊としての、冷徹なまでの覇気がにじみ出る。
「裏社会のドンとして、私は大陸中の情報網を完全に掌握しているわ。あちこちに散らせてある私の小鳥たちを使えば、どこの貴族が結晶兵器を買い漁っているか、どこの軍隊がアジールに目を付けているか、すべて事前に炙り出せる。ここをあんな腐った国々の好きにはさせないわ」
「頼もしいな。お前が防衛の知恵を貸してくれるなら、アジールの岩壁は文字通り金剛石の要塞になる」
ガウルは再び豪快な笑みを浮かべ、机の上の焼き菓子を一つ口に放り込んだ。ルカはその力強いやり取りを見つめながら、恐怖を払い退けるように深く息を吐き、毅然と顔を上げた。
「ウェンディさん、ガウル様! 僕も……僕ももっと風の魔法を練習して、この街の防衛に役立ちたいです! ウェンディさんみたいに、攻めてくる敵の動きを完璧に見切れるようになりたい!」
「およしなさいな、私に追いつくには百年早いわ。 でも――」
ウェンディは紅茶を優雅に口に含むと、悪戯っぽくルカを見つめた。
「その意気込みだけは買ってあげるわ。明日から私の特別講義をつけてあげるわ。あなたの風の扱い方、まだまだ粗削りですもの」
「はい! よろしくお願いします!」
ルカの力強い返事が、夜更けの応接室に心地よく響く。
大国がもたらす『魔力革命』の嵐が迫る中、アジールの王と、裏社会の女王、そして未来を担う少年は、互いの絆をさらに強固なものとしながら、新たな戦いへの備えを確実に始めようとしていた。




