76話 彷徨う影
アルス失踪から3日後。
血と肉の匂いが、刺すように鼻腔を突く。
灰色の土が広がる荒野の中心で、アルスは佇んでいた。足元には、原型を留めない魔物の死骸が山のように積み重なっている。引きちぎられた肢体、飛び散った濃緑色の体液。それらすべてが、凄惨な殺戮の痕跡を物語っていた。
数時間か、数日か。日照りの周期すら、今のアルスには認知できない。頭の奥が、重く不快な霧に包まれているようだった。思考をまとめようとすると、脳を直接掻き乱されるような鋭い痛みが走る。
途切れ途切れの記憶が、濁った水底から浮上しては消えていく。
サリアの姿。
薄暗い部屋の床に広がっていた、黒赤い血の海。
衣服を真っ赤に染めて崩れ落ちる身体。
伸ばしたのに、何一つ掴めなかった己の手。
(……守る、と……誓ったのに)
この世界で生きていくと決めたあの時、誓ったはずだった。
やっと力を手に入れ、二度と大切なものを失わないと。自分と、自分の周囲にある温かな日常をすべて守り抜くのだと。
それなのに――結局、また失った。
歪んだ視界の奥で、記憶の残像が前世の光景と重なり合っていく。
『佐藤健一』として生きていた、あの無味乾燥な日々。
何かを変えたい、変わりたいと心の中で望みながら、何一つ変えることができなかった惨めな人生。
上司の顔色を窺い、世間の流れに身を任せ、誰かに与えられた役割をただこなすだけの日々。己の意思で何かを選び取ることもなく、誰かを本気で守ることもできないまま、ただすり減っていた。
アルスは、力なく乾いた唇を開いた。
「結局……俺は、何も変わってなかった……」
声は、風の音にかき消されるほど小さかった。
転生し、魔力を手に入れた。理論を構築し、肉体を鍛え、強くなったはずだった。無能から這い上がった天才と称賛され、何でもできるかのように錯覚していた。
だが、突きつけられた現実は前世と何一つ変わっていない。
大切な存在が壊れていくことすら気づけず、敵の策謀の渦中で愚かに踊らされ、最後にはただ無力に打ちひしがれた。
「俺は……何のために、生き返った……?」
自問に対する答えは、どこからも返ってこない。
思考が迷い、葛藤するたびに、激痛と罪悪感が胸を押し潰す。だからこそ、アルスは求めていた。
(やはり力だ…まだ、力が足りない…)
余計な迷いや悩みを一切合切吹き飛ばす、絶対的な力。何も考えずにすべての障害を打ち砕ける、圧倒的なパワー。それさえ手に入れば、この苛烈な胸の苦しみすら消えてなくなるはずだと、狂った思考で縋りついていた。
そうしてアルスが辿り着いたのは――教団の秘密魔石工場。
かつて信徒について収集した情報を解析した際、記憶していた地下プラントの存在。イグニスの信徒たちが、大量の魔石を精錬・蓄積している重要拠点だ。
地表に構えられた重厚な鉄扉の前で、アルスは足を止めた。
迷いを殺すように右拳を固く握り込み、魔力を強引に打ち込む。
――ドゴォンッ!!
物理的な質量打撃と膨大な魔力衝撃を受け、重厚な特殊合金の鉄扉が内側へ向かって削れ飛び、爆音を立てて崩落した。
即座に警報が鳴り響く。信徒たちが現れ、軍隊のように洗練された動きで迎撃態勢を整える。
「侵入者確認。目標、アルス」
「神を阻む害虫に、聖なる裁きを」
感情を削ぎ落とした冷徹な声とともに、信徒たちが構えた高出力の魔導銃や、設置型の大型魔導兵器が一斉に火を噴いた。
ドォン! バババババッ!!
放たれたのは、通常の魔法弾ではない。魔石のエネルギーを限界まで圧縮・加速させた、高密度の熱線だ。
アルスの不完全な魔力振動障壁が激しい火花を散らして削られ、防ぎきれなかった熱線がアルスの肩や脇腹を容赦なく穿つ。
「ぐっ……!」
肉の焦げる匂いが立ち込めるが、アルスは痛みを無視して前進する。
右拳に魔力を纏わせ、最前線の信徒へ殴りかかった。
――ガアアンッ!!
一撃で重装甲の防具ごと信徒の胸腔を粉砕する。だが、倒れゆく信徒は苦痛に顔を歪めるどころか、薄笑いを浮かべながらアルスの腕を死力で掴んだ。
「神のために――」
――ズドォンッ!!
胸部に仕込まれた魔導火薬が近距離で爆発する。凄まじい衝撃波と金属片がアルスを襲い、全身から血が噴き出す。
イグニスの信徒は強い。それも、個々の持つ魔導具の脅威度だけでなく、「死を一切恐れず、互いを肉の壁として完璧な連携を組む」という狂気の強さだ。
次々と繰り出される武器、近接用の魔導槍、視界と呼吸を奪う有毒煙幕、そして隙のない魔導銃の十字砲火。アルスの肉体は刻一刻と傷つき、血に染まっていく。
だが、今のアルスに「敗北の恐怖」も「痛みの忌避」もなかった。
「退け……ッ!!」
アルスは迫り来る信徒たちの集団へ飛び込み、致命的な物理の一撃を叩き込んで骨を砕き、肉を押し潰していく。
魔導兵器の過熱爆破と血煙が巻き荒れる殺戮の果てに、アルスは工場最奥の「精錬保管庫」の扉を拳でブチ破った。
そこには、精錬を終えたばかりの魔石が、怪しい漆黒の光を放ちながら整然と並べられていた。触れるだけで肉体を蝕む、危険極まりない高濃度エネルギーの結晶。
アルスは虚ろな目で棚に近づくと、その魔石を掴み上げ、開いた顎の中へ力任せに押し込み、飲み込んだ。
「があああぁぁぁぁッッ!!」
胃腑の中で粉砕された魔石から、制御不能な極大の魔力が解き放たれる。
過剰なエネルギーが体内を狂流となって暴れ回り、全身の肉体組織を内側から破砕していく絶望的な激痛。
だが――この苛烈な激痛と圧倒的な魔力の奔流の中だけで、アルスはサリアの血の光景と、己の無力さに対する自責の念を忘れることができた。
「は……はは……ハハハッ!」
痛みに顔を歪ませながら、アルスは壊れた笑い声を漏らす。
そのまま二個目の魔石へ手を伸ばした、その時だった。
(……なんだ……これ……)
ふと視界に入った自分の右手に、アルスは違和感を覚えた。
手首から肘にかけての皮膚が、まるで焦げた石炭のように黒く変質し、硬化していたのだ。荒野での過剰な魔力行使、そして先ほど叩き込んだ力任せの打撃の反動――度重なる負担で限界を超えていた右腕は、自分が知らぬ間に蝕まれていた。
だが、自分の腕が異形のものへと変質していることに気づいても、驚きや恐怖の感情すら湧き上がってこなかった。
「……ハッ」
冷めた吐息を漏らすと、アルスはその黒く硬化した右腕で次の魔石をひったくり、さらに喉の奥へ押し込んでいく。一つ、また一つ。圧倒的なパワーの快楽と痛みの麻薬に溺れるように。
「アルス! 逃がさん!」
死に瀕した教団の残党兵たちが、保管庫の爆破装置を作動させながらなだれ込んでくる。
直後、耳を裂く大爆裂が地下深くに重く響き渡った。
圧縮された魔導火薬が一斉に誘爆し、莫大な火炎と衝撃波が部屋を埋め尽くす。天井の支柱は激しく狂い暴れ、何トンもの巨岩と落石が荒れ狂う火の海へと叩きつけられた。爆風が地上へと繋がる坑道を穿ち、地表の土煙を天高く吹き上げる。施設は完全に自壊し、すべてが瓦礫の底へと埋もれた。
地獄のような爆煙と熱気が吹き荒れる破砕の渦。
その猛煙を割り、巨大な瓦礫を力任せに押し退けて、影が一つ、ズルリと這い出てきた。
全身を返り血と煤で汚し、焦げた衣服を揺らしながら歩み出る異形の存在。
限界まで暴走した魔力に耐えかねた右腕は、すでに生身の肉の面影を失っていた。手首から肩口にかけて皮膚が炭化し、黒く荒々しい石炭のような質感を剥き出しにしている。まるで死肉を繋ぎ合わせた棒切れのように、異様な冷たさを漂わせながらだらりと垂れ下がっていた。
だが、アルスは壊れた右腕を見ることすらしなかった。
左手には、まだ多くの魔石が固く握りしめられている。
アルスは暗く深い森の奥へとふらふらと姿を消していった。
「……どうでもいい」
己の腕が黒く腐り落ちようが。
この身が魔力の暴走で爆散しようが。
もう何もかも、どうでもよかった。




