75話 襲撃。ガルバディア兵。
貴族たちの密談が行われた、その日の深夜。
ガルバディアを覆う闇を切り裂き、重々しい金属の駆動音が城郭の廊下に響いていた。足音そのものは完璧に消されている。だが、彼らが纏う強化外骨格に組み込まれた魔法結晶が、微かに、かつ不穏な高周波の脈動を大気に刻んでいた。
襲撃者は六人。ガルバディア帝国の悪徳貴族が直轄する私兵の中でも、最高峰の精鋭――通称『魔導兵』である。
生まれ持つ回路は無くとも、軍制改革が生んだ最新の魔導具により、一騎当千の破壊力を誇る彼らの動きに、一切の躊躇はない。
先頭の男が、顎で静かに合図を送る。
刹那――高圧注入された魔力が脚部のアーマーを極限まで収縮させ、跳躍力が爆発した。
ドゴォンッ!!
分厚い木製の扉が、高圧の衝撃波と共に木端微塵に吹き飛ぶ。
散弾のごとく降り注ぐ木片の嵐を突き抜け、三人の魔導兵が雪崩れ込んだ。手にした魔導槍の先端では、高熱の炎が渦を巻いている。
「そこだぁッ!」
迷いなく繰り出された三本の刺突。天蓋付きのベッドごと中央の膨らみを無慈悲に突き刺し、抉り、肉塊に変えんとする苛烈な一撃。シーツが爆散し、無数の羽毛が部屋中に舞い散る。
――だが、手応えが無い。
「なに……!?」
槍を突き立てた男の目が見開かれる。引き裂かれたシーツの隙間にあったのは、ただ丸められた枕と毛布の塊だった。
舞い散る白無の羽毛が、ゆっくりと床へ落ちていく。戸惑い、互いに視線を交わそうとした――その瞬間。
「あらあら。淑女の寝室へ無断で突撃するなんて、ガルバディアの紳士は随分とせっかちなのね」
部屋の隅。闇が深く澱むクローゼットの陰から、鈴の音のように軽やかな声が響いた。
魔導衣の袖を軽やかに払うウェンディの姿。その瞳は凍てつく氷の如き冷徹さを湛え、彼女を中心に部屋全体の空気が目に見えない重圧となって張り詰める。
彼女の周囲の大気はすでに、わずかな呼吸の揺らぎすら許さないほど高密度に圧縮されていた。
「囲めッ!」
即座に反応した背後の魔導兵が、両拳の魔導籠手を合致させる。圧縮された大気弾が、音速を超えてウェンディの頭部へ射出された。
ドォンッ!!
鼓膜を狂わせる爆音。だが、着弾点に彼女の肉体は存在しない。
光の屈折率を完全制御する不可視化技術。陽炎の理論を応用し、大気の密度の差で自身の『網膜上の位置情報』そのものをズラされた魔導兵たちの攻撃は、虚しく背後の石壁を粉砕するだけに終わる。
「遅いわね……」
耳元で囁く、氷の吐息。
振り向きざまに水平になぎ払われた魔導槍の刃を、ウェンディは上半身をわずかに滑らせてかわす。鋭い風切り音が空気を切るが、彼女の髪一筋すら捉えられない。
すれ違いざま、ウェンディはあえて敵の懐へ踏み込んだ。華奢な掌を男の胸当てに添え、指先を男の顔面――口元へと向ける。
――局所減圧(気道真空)。
ボムッ!!
男の顔の周りから、一瞬にしてすべての大気が消し飛ばされた。
口元の気圧が即座にゼロ(真空)へ至ったことで、男の肺の中にあった空気(一気圧)が、気圧差によって口から猛烈な勢いで逆流・全噴出する。
「ぐ、ガッ……!?」
急激すぎる減圧に耐えきれず、男の肺胞と毛細血管が一瞬で破裂した。気道から強制的にすべての酸素を奪い去られた大男は、叫び声すら上げられず、口から血の泡を吐いて白目を剥き、崩れ落ちた。
「貴様ァッ!」
残る兵たちが同時に跳躍する。一人が床を蹴り、魔導具の連続刺突を繰り出し、もう一人が広範囲を薙ぎ払う圧縮風刃を解き放つ。完璧な上下の挟み撃ち。逃げ場は無いはずだった。
だが――ウェンディの反響定位は、部屋全域の空気の振動を完璧に網羅していた。
迫る風刃に対し、彼女は自身の前面の大気密度を極限まで高め、瞬間的に『空気の流体壁』を構築する。直撃するはずだった敵の風刃は、高密度の空気壁に滑るように軌道を逸らされ、皮肉にも相方の魔導兵の太腿を深く切り裂いた。
「ぐあぁっ!?」
大腿動脈を裁たれ体勢を崩した兵士の顎へ、ウェンディは風の超振動を纏わせた掌底を突き上げる。脳幹を直接揺らす最短軌道。
ガァンッ!!
硬質な骨の打撃音が響き、二人目が脳揺れを起こして床に叩きつけられた。
幾重にも交錯する金属音と、肉体が崩れ落ちる重い音。
魔導兵たちは確かに強かった。個々の魔力出力も連携も、軍の精鋭に恥じぬものだった。だが、彼らがどれほど高出力の魔法を魔導具から放とうとも、彼女はその根幹である『大気そのものを支配する者』なのだ。
火を放てば即座に周縁の酸素を遮断され、風を放てば流体を上書きされて己に跳ね返る。
三分と経たぬうちに、床には苦悶の声を漏らし、あるいは完全に沈黙した兵士たちの山が築かれていた。
最後に残った隊長格の男が、血の混じった唾を吐き捨て、震える手で槍を構え直す。その瞳には、かつて見下していた「魔法使い」という怪物への、剥き出しの恐怖が宿っていた。
「化け物め……っ!」
「そうね、私たちは化け物。……でも勘違いしないで。あなた方の頼みの綱である『魔導具』の術式など、最初からすべて見切れているのよ」
ウェンディは冷ややかに告げると、指先を優雅に一振りした。
男の眼前の空気が、熱膨張によって瞬間的に爆発する。
ドォンッ!!
不可視の衝撃波を真っ向から浴びた隊長の巨体は、吹き飛んだ扉ごと廊下の壁へ叩きつけられ、二度と動かなくなった。
静寂が戻った寝室。
割れた窓から吹き込む夜風が、ウェンディの長い髪を静かに揺らす。床にしがみつき、苦しげな呼吸を漏らす兵士たちを、彼女は見下ろすことすらしなかった。
「……やっぱり、ここも私の居場所じゃないみたいね」
ぽつりと零れた声には、高飛車な高笑いはなく、どこか深く突き放したような寂寥感が混ざっていた。
現場の兵士たちと積み上げかけていた信頼も、結局は権力者たちの醜い排他心と保身によって容易く裏切られた。
魔族に対抗する術を築いたつもりだった。しかし、腐り切ったこの国に、もはや留まる理由など微塵もない。
ウェンディは一度も振り返ることなく、夜闇の向こうへ――アジールへと向かって静かに姿を消した。




