73話 失踪
「レオン、手分けするぞ! お前は階下と庭を見ろ! 俺は屋敷の奥を探す!」
「はいッ!」
階段を駆け下りていくレオンの足音を見送り、俺は一人、薄暗い廊下へと翻した。心臓が早鐘のように激しく脈打つ。サリアとリリアが同時に姿を消すなど、嫌な予感しかしない。
先ほどレオンと共に踏み込んだサリアの部屋を一度横目に過ぎ、俺はさらに奥の区画――使用人たちの居室や、めったに人が立ち入らない奥の離れへと足を進めた。
だが、歩を進めるにつれて、胸の中の不穏な違和感は膨らんでいく。
いつもなら朝の準備で慌ただしく動き回っているはずの使用人たちの気配が、一切ないのだ。足音も、話し声も、調理場の慌ただしい気配すら聞こえない。屋敷全体が、まるで巨大な墓場のように死に絶えている。
(……何かがおかしい。いくらなんでも静かすぎる)
まずはリリアの部屋へと向かい、重いドアを押し開けた。
室内は完璧に整頓されていた。ベッドのシーツには一切のシワもなく、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように生活感が削ぎ落とされている。
嫌な胸騒ぎを覚えながらリリアの部屋を後にし、俺はさらに奥の暗い廊下へと足を踏み入れた。
奥へ進むほど、空気は冷たく湿り気を帯びていく。物置や古い資料庫が並ぶ、普段は誰も寄り付かないエリアだ。仮に不審者が侵入した、あるいは誰かを連れ去ったとすれば、人目を避けるためにここを通る可能性が高い。
壁を伝いながら慎重に角を曲がった、その時だった。
ツン、と鼻腔を刺すかすかな異臭。
甘い香炉の匂いの奥に混じる、鉄錆びのような、生々しい血の匂い。
(……血……!?)
視線を床に落とすと、薄暗い絨毯の上に、黒ずんだ血痕が続いていた。奥の部屋に向かって、引きずったような筋が伸びている。
息が詰まる。嫌汗が全身から噴き出した。血痕の先にあるのは、廊下の突き当たり――古びた物置部屋の頑丈な木扉だ。
(頼む……サリア……無事でいてくれ……!)
祈るような思いで地を蹴り、そのドアに手をかけ、勢いよく押し開けた。
「サ――」
だが、俺の口から出かかった名前は、喉の奥で完全に凍りついた。
目の前に広がる光景が、脳の処理能力を遥かに超えていた。
薄暗い部屋の床には、じっとりと塗れ広がる黒赤い血の海。その中心で、サリアが腹部から大量の血を流し、衣服を真っ赤に染めて崩れ落ちている。
ぴくりとも動かない彼女の身体を、背後から愛おしそうに抱き支えているのは――返り血を全身に浴びたリリアだった。
「あ……、あ……」
サリアの青白い唇が微かに震え、光を失った瞳が虚空を見つめたまま、がくりと首が垂れた。生命の灯火が、完全に消えた瞬間だった。
「サリア――ッ!!」
頭が真っ白になり、全力で地を蹴ろうとした。激昂とともに魔力を一気に跳ね上げ、目の前の女を叩き潰そうとする。だが――。
(な……にが……!?)
魔力が、立ち上がらない。手応えが全くないのだ。それどころか、脚に力が入らず、まるで自分の身体ではないかのように感覚が麻痺していく。意志に反して膝が激しく震え、ガクリと床に膝をついてしまった。
肉眼で確実に捉えているはずのリリアの姿が、二重三重に揺らぐ。頭が割れるように痛む。なぜこんな時に身体が動かない。予想外すぎる異常事態に、俺の身体は致命的なもたつきを晒した。
「……くく、ふふふ! 本当に愚かですね、アルス様」
リリアが顔を上げた。三年間、毎日俺たちに向けていたあの献身的な微笑みではない。顔を歪め、狂気と愉悦を剥き出しにした、見たこともない悪魔の笑顔。
「リリア、お前……何を……!」
「あなたが化け物の解析だ何だと独りで悦に入っている間、この娘がどれほど擦り切れていたか、お気づきにもならなかったでしょう? 私がほんの少し言葉を添えてあげるだけで、お二人は勝手にすれ違い、勝手に傷つけ合ってくれた。非常に面白い観察対象でした。最後は私の手で壊してあげるのが、美しいですね」
滑稽そうに言い放つリリアの声が、狂った鐘のように耳の奥で激しく反響する。
「そこを……動くなぁぁッ!!」
魔力が巡らぬ身体で、這うように手を伸ばそうとした瞬間。 リリアは懐からあらかじめ準備していた暗器を取り出し、床へ叩きつけた。
バァン!! と破裂音が響き、強烈な閃光と呼吸器を焼く濃密な有毒煙幕が視界を奪う。
ゴホッ、と激しく咳き込み、涙で視界が塗りつぶされる中、ガシャーンと窓ガラスが派手に割れる音が響いた。リリアはサリアの身体を抱えたまま、夜の闇へと滑り落ちていったのだ。
「あ……」
煙を必死で振り払い、割れた窓枠へしがみつく。乗り出した俺の手は、冷たい夜気をつかんだだけだった。
逃げられた。追わなければならない。頭ではそう分かっているのに、指一本すら動かなかった。
窓枠を掴んだまま、俺はその場に崩れ落ちた。吸い込んだ煙のせいで肺が焼けるように熱く、喉が引き攣る。だがそれ以上に、激しい目まいと吐き気が脳を直接揺さぶり、立っていることすら困難だった。
さっきの魔法の不発といい、この身体の異常といい、全てがあいつの仕込みだったのだ。
いや、何より――俺の心を完全に破壊したのは、床に残された、サリアの大量の血だった。
死んだ。俺のせいで、サリアは死んだ。
いざという時には何が起きているかも分からず、魔法すらまともに使えず、もたついて全てを台無しにした。俺の傲慢さが、俺の視野の狭さが、一番大切な人間を殺したのだ。圧倒的な絶望が、胸の奥底をドロドロに溶かしていく。魔力を操る意志そのものが、内側から消えていく感覚だった。
「師匠! 師匠、しっかりしてください……っ!」
割れた窓の前にへたり込み、虚空を見つめたまま動かない俺の肩を、駆けつけたレオンが激しく揺さぶる。
だが、俺の耳には何も届かなかった。視界にあるのは、サリアが流した赤黒い血の海だけだ。
前世の知識? 魔力による身体強化? そんなものが何になる。
結局、俺は足元で何が起きているかも気づけず、三年間も敵を飼い、自分の手でサリアを追い詰め、最後には目の前で殺されるのをただ見ていることしかできなかったのだ。無力。ただの哀れな道化ではないか。
「師匠! リリアさんを追わないと……っ!」
レオンが何かを叫んでいるのを、ぼんやりと聞いていた。
追う? 誰がだ?
今の俺は謎の眩暈と吐き気で立ち上がることすらままならない。何より、魂が抜けたような俺の身体には、もう魔力を操る力も、戦う理由すら残っていなかった。
「アルス様! アジールより緊急の連絡が――!」
廊下の向こうから屋敷の騎士たちが集まってくる声が聞こえる。だが、リリアが放った煙幕の残毒が充満しており、誰一人として部屋に近づけない。
騒然とする屋敷の中で、俺は力なく息を吐いた。
「……すまない、レオン。あとは頼んだ」
「え……? 師匠……?」
俺はレオンの手を力なく振り払い、ふらふらとした足取りで歩き出した。
「師匠!? どこに行くんですか! 師匠!!」
背後から響くレオンの悲痛な叫び声も、屋敷に満ちる喧騒も、すべてが遠い世界の出来事のように霧散していく。
衣服にサリアの血を浴びたまま、アルスは夜の闇へと歩を進めた。
守るべきものを失い、己の無力さに魂まで叩き潰された男の、絶望の失踪だった。




