72話 暗躍するもの
深夜。暗闇の中から、アルスの魔力を遠隔から感知し、何者かが冷ややかな声をあげる。
「……はは」
広げた手のひらに淡い紫の光が浮かび上がる。光の針は、アルスの書斎がある方角を正確に指し示していた。
「順調だ」
その声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
「あの男、本当に分かりやすい。イグニスをぶつけるだけで、途端に視野を狭めて、一番大切なものすら見えなくなる」
手のひらの光が波打ち、形を変え別の方角を指し示す。
「サリア……あの娘の心が、少しずつすり減っていくのが手に取るように分かる。あと少しで、二人の絆は内側から完全に腐り落ちる」
この者にとって、これは単なる命令された仕事ではなかった。 かつて強固だった関係が、確実に壊れていくその残酷な過程そのものに、歪んだ至上の満足感を覚えていた。
「もう少し、その綺麗な絆を腐らせる……くくく」
呟きは、静かな夜の闇に溶けるように消えていった。
翌朝。いつものように上品なノック音が響く。
「アルス様、お目覚めの時間です」
リリアの声だった。
それからの数日間、アルスは狂ったような解析作業の手を完全に止めていた。いや、止めざるを得なかったのだ。サリアとのあの冷え切ったやり取りが胸の奥底にくすぶり続け、どうしても思考が数式へと向かわない。
リリアはそんなアルスの様子を察したように、滋養のある食事を静かに運び、甲斐甲斐しく身の回りの世話を続けていた。
「……リリア。俺は、間違っていたのだろうか」
ぽつりと漏らしたアルスの呟きに、リリアは手を止め、憂いを帯びた瞳で静かに微笑んだ。
「アルス様がどれほどの恐怖と背中合わせで戦っていらっしゃるか、私は存じております。サリア様のお気持ちも分かります……ですが、大切な人を守るために力を求めるアルス様のお考えも、決して間違いではございませんわ」
「そう、だろうか……」
「ええ。サリア様も今は少し戸惑われているだけです。アルス様が全てを乗り越えた時、きっとお気持ちを解ってくださいます。今はご自身のお体と、なすべきことに集中なさってください」
その言葉は、迷うアルスの心にすっと入り込んだ。自分を否定せず、肯定してくれる存在。アルスは深く息を吐き、微かに頷くのだった。
サリアとの一件から、数日が過ぎていた。
俺は書斎の窓辺で、ぼんやりと外を眺めていた。壁一面の資料はそのままだったが、ペンを握る手の速度は落ちていた。
(やっぱり、謝らなければ、いけないな)
頭では分かっていた。あの夜、サリアにかけた言葉がどれほど彼女を傷つけたか。だが、いざ顔を合わせようとすると、前世からの悪癖か、感情の言語化が酷く下手くそな自分に気がつき、何を言えばいいのか分からなくなる。
「アルス様、サリア様がいらっしゃっています」
背後から聞こえたリリアの声に、俺はわずかに身を固くした。
「……分かった」
応接間に向かうと、サリアが静かに椅子に腰掛けていた。
「サリア」
「……アルス」
彼女の表情には、これまでのような屈託のない笑顔はなかった。どこか距離を感じさせる、硬く、冷たい表情。
「あの、この前は――」
俺がようやく言葉を切り出そうとした、その時だった。
「治癒院の方で、急な呼び出しがあったの」
サリアは俺の言葉を遮るように、淡々と告げた。
「今日は、それだけ伝えに来たわ。しばらく、忙しくなるかもしれない」
「サリア、待ってくれ。まだ話が」
「……ごめんなさい、時間がないの」
サリアはそれだけ言うと、振り返ることもなく立ち上がり、応接間を後にした。俺はその背中を、追いかけることができなかった。
(今度こそ、ちゃんと話そう)
俺は心の中で、そう強く誓った。
明日こそは作業をすべて止め、彼女の元へ行って、きちんと自分の気持ちを伝えよう。
その夜、俺は久しぶりに書斎ではなく、自室のベッドで早めに眠りについた。明日への決意を胸に。
だが――。
翌朝。
「師匠! 大変です……!」
バン、と激しくドアが叩き開けられ、息を切らせたレオンが寝室に飛び込んできた。その血相を変えた声で、俺は目を覚ました。
「どうした」
「サリアさんが……。部屋に、いないんです……!」
俺は即座にベッドから飛び起きた。
「治癒院には確認したか」
「ええ、それが……昨日から一度も顔を出していないって……」
全身から血の気が引いていくのが分かった。
「サリアの部屋を見せろ」
俺は寝間着のまま寝室を飛び出し、サリアの部屋へと駆けていった。
廊下を突き抜け、激しく踏み込んだ部屋には、まるで何の前触れもなく彼女が忽然と姿を消したかのような、不自然な静けさだけが残されていた。机の上には、わずかに乱れた書類。普段使っている杖が、壁に立てかけられたままになっている。
「……まさか、イグニスか?」
最悪の想像が脳裏をよぎる。奴の手が、すでにここまで伸びていたのか。激しい焦燥感が胸を突き刺す。サリアが危ない。早く見つけ出さなければ。
「昨日、サリアを最後に応対したのは誰だ。リリアを呼べ。あいつなら何か知っているかもしれない」
いつも身近でサリアの様子を見てくれていたリリアなら、不審な気配に気づいていたかもしれない。そう信じて発した俺の言葉に、レオンが奇妙に顔を歪め、震える声で告げた。
「それが……リリアさんも、今朝からどこにも姿が見当たらないんです……」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、俺の思考が完全に凍りついた。
リリアが、いない?
「リリアまで巻き込まれたのか……!?」
最悪の事態だ。イグニスの狙いはサリアだけでなく、この屋敷の人間すべてだったのか。敵の襲撃を許し、身近にいた二人をも同時に奪われたかもしれないという猛烈な恐怖と怒りが、俺の理性を狂わせるように吹き荒れていた。




