71話 視線の先
三週間後。アルスの書斎の壁は、緻密な図と計算式で埋め尽くされていた。部屋全体が、イグニスという化け物を解析するための巨大な頭脳と化している。
レオンがその異様な光景に足を踏み入れたのは、壁の半分が資料で埋まった頃だ。
「師匠、少し休みませんか」
グラフを見つめるアルスの背中に、レオンは声をかける。
「今は忙しい」
振り返りもせず、ペンを走らせるアルス。
「一週間、ずっとそれです。訓練の質も落ちている。昨日は俺の蹴りを正面から受けてましたし」
アルスは壁から目を離さず、淡々と返した。
「重心移動の癖を予測した上での最適解だ。対処はできていた」
「…普段の師匠なら、あんなミスはしません。過労ですよ」
「問題ない」
アルスの視線は、数式から外れない。
「明日の訓練に備えて休め」
有無を言わせぬ響きに、レオンは肩を落として部屋を出た。廊下にはリリアが控えていた。
「…倒れるまで止まらないでしょうね」
リリアは静かにドアを叩き、淹れたての茶を置いた。
「アルス様。これほど集中できるのは才能ですが、少し休まれてはどうですか?」
アルスはペンを止めず、「後で飲む」と繰り返す。リリアは静かに続けた。
「昨日、サリア様がいらっしゃいました。……中の気配を感じて、そのまま帰られましたよ」
アルスの動きが、数秒止まった。
「……そうか」
「ご連絡されては?」
「後でする」
リリアは一礼して退室した。廊下で待つレオンに「今は大事な時期ですので、そっとしておきましょう」と告げ、リリアは仕事に戻っていった。
一人残されたアルスは、数時間後に冷めきった茶を一気に飲み干した。
(媒介を通さずエネルギーを届ける理論か。…理論的には)
サリアの残影が頭をよぎるが、次の瞬間にはまた数式が思考を上書きする。連絡は、後でいい。今は、この計算が先決だ。
翌週、サリアが再び現れた。ドアをノックするなり、彼女は壁一面の資料に息を呑む。
「…すごいことになってるわね」
「精度を上げている。イグニスの防壁を崩すためだ」
サリアは椅子に座るアルスの横顔を見つめた。その瞳には、かつてない深い疲弊と、鋭利な光が宿っている。
「アルス、今日少し話せる?」
「一時間後にテストがある」
「一時間あれば十分よ」
サリアは窓際に腰を下ろした。
「先週、声をかけそびれたの、気づいてた?」
「リリアから聞いた」
「……ねえ。どうしていつも、私から来るのを待ってるの?」
「忙しいからだ」
「忙しいのは分かる。でも、最近のあなた、ずっと別の方を見てる気がするの」
指摘され、アルスは視線をサリアへ戻した。
「分析が気になっている。対策がまだ未完成なんだ」
「それは分かってるわ。でも、そうやって遠くの化け物ばかり見てるとき、私はここにいるのに、あなたの目には映っていない気がするの」
アルスは思考を巡らせる。
「守るために強くなる必要がある。論理的に間違っているか?」
「理屈はそうね。でも!」
サリアは膝の上で拳を強く握りしめた。
「あなたが『守る』と言ってた頃と、今、一体何が変わっちゃったの?」
核心を突く問いに、アルスは言葉を詰まらせた。今の彼には、感情の機微を解く余裕など残っていない。
「…悪かった。今夜、夕食を一緒に食べる時間ならある。リリアに用意させる」
「…うん、いいよ」
サリアの声は、ひどく平らだった。
二日後。サリアが再び書斎のドアを開けた。
「明後日、治癒院で講習があるの。その前に魔力制御を見てほしいんだけど」
「今は忙しい」
即答だった。サリアは動きを止め、静かに問う。
「正直に聞くけど。今、私の話と、その壁の作業、どっちが重要なの?」
アルスは苛立ちを隠そうともせず、ペンを置いた。
「そういう比べ方は論理的じゃない。どちらも重要だが、優先順位がある」
「そうよね。…分かったわ」
「何が分かった」
「ちょうどいい場面を探していたら、あなたとはいつまでも話せないってことよ」
サリアは淡々と微笑み、踵を返した。
「邪魔してごめんね」
パタンと閉まった扉を見つめ、アルスは一瞬だけ躊躇した。だが、すぐに視線は計算式へと戻り、サリアの存在は、書きかけの数式の中に消えた。
翌日、彼女は来なかった。
三日目の夕方、リリアが静かに書斎へ入った。
「アルス様、サリア様から伝言です。しばらく忙しいとのことです」
「そうか」
「……ご連絡、されますか?」
「後でする」
いつもの答え。
だが、その「後で」という約束が、翌朝の訓練を過ぎても、さらにその先も果たされないままであることを、アルスはまだ、自覚すらしていなかった。




