70話 エゴ
あの日、石切り場の荒野の決闘以来、アルスの生活は一変した。
正確に言うなら、変わった部分と、不気味なほどに変わらない部分が混在していた。
変わらない部分は、朝の訓練時間だ。
夜が明けるか明けないかの薄暗い時間、アルスは以前と変わらず庭に出て、黙々と身体を動かしている。ただ、その精確さは増していた。寸分のブレも許さない関節の連動、呼吸の制御。かつてのような限界突破の試行錯誤ではなく、まるで精密機械が朝の起動テストを行うかのような、無機質で静かな狂気がそこにはあった。
変わった部分は、それ以外のすべての時間だった。
食事を早く終わらせるようになった。味わうためではなく、単に細胞の維持に必要な有機物を胃に放り込む作業のように、数分で平らげる。
会話を極端に短くするようになった。言葉を交わす時間すら惜しむように、相手の意図を最小限の単語で処理すると、すぐに背を向ける。
そして、一日の大半を薄暗い書斎に籠もって過ごすようになった。
書斎の机の上には、異様な量の紙がうずたかく積み上がっていた。
アルスが狂ったようにペンを走らせ、書き連ねている思考の残骸。それらをリリアはある日、部屋の掃除に立ち入った際、偶然に一枚だけ目にした。
そこに並んでいたのは、魔術の数式ではなかった。
おぞましいほど精緻に描かれた人体の筋肉や神経の断面図。そこから放射状に伸びる無数の矢印、謎の対数グラフ。
そして――。
『熱変換の臨界点』『分子間運動エネルギーの損失率』『接触前から干渉可能な最大距離の相関性』
インクが滲むほど強い筆圧で何度も書き殴られ、丸で囲まれたそれらの言葉。
リリアは直感で理解した。これはすべて、あの荒野でアルスの半身を消し炭にした『赤髪の天災』を解析し、殺すための、冷徹な殺人カルテなのだと。
「アルス様、夕食の時間です」
夕闇が書斎を支配し、蝋燭の火が小さく揺れる中、リリアが静かにドアを開けた。
アルスは「ああ」と短く返事をしたが、視線は手元の紙から一ミリたりとも離そうとはしない。
「後で食べる」
「今日で、三日連続でございます、アルス様」
リリアの静かな、しかし確かな非難を含んだ声にも、アルスのペン先は止まらない。紙に滑る硬い金属音だけが部屋に響く。
「分かった。……後で食べる」
その「後で」という約束が果たされるのは、いつも深夜の寝静まった時間だった。
すっかり冷め、脂の固まったスープと硬くなったパンを、アルスは暗闇の中でただ一人、事務的に数分で胃に流し込んでいた。
サリアが屋敷を訪ねてきた日があった。
アルスが書斎から一歩も出てこない間、サリアは客間のソファに座り、静かに一時間ただ待ち続けた。だが、いつまで経っても扉が開く気配はなく、アルスの姿を見ることは叶わなかった。ついにしびれを切らしたサリアは立ち上がり、制止しようとするリリアを軽く手で遮ると、廊下を突き進んで直接、書斎の重い扉をノックもせずに開けた。
アルスはやはり、紙の海に埋もれていた。
「少しいい?」
サリアが部屋の入り口で、静かに佇む。
「なんだ」
アルスはペンを動かしたまま、低く応じる。
「最近、修行ばっかりね。寝る間も惜しんで」
「研究だ」
「研究でも、修行でも、私にとっては同じよ。……ちゃんと、ご飯食べてる?」
「食べてる」
「ちゃんと?」
「『ちゃんと』という定義が極めて曖昧だが、必要量は摂取している」
冷淡極まりないアルスの返答。サリアは小さくため息をつくと、歩み寄ってアルスの机の向かいにある椅子を引き、静かに腰掛けた。
アルスのペンが一瞬だけ、その音を止める。
「アルス、少し聞いてもいい?」
「何だ。手短にしろ」
「……あの戦いから、ずっとイグニスのことを考えてるでしょ」
「分析し、研究している。奴の防壁の自律魔法、そのタイムラグの有無、熱変換の限界値。それらを攻略しなければ、次は確実に死ぬ」
「それは、机の上の紙を見れば、あなたがどれだけ必死かくらい分かるわ。ベッドに入っても、頭の中であいつと戦ってるのでしょうね。でもね、アルス」
サリアはそこで一度言葉を切り、机の上の紙束を見つめ、それからアルスの目を真っ直ぐに見据えて言った。
「そこまで一人で抱え込まなくてもいいのよ」
その言葉に、アルスはかすかに眉をひそめ、ようやく書斎の紙から、目の前の少女へと視線を上げた。
疲弊し、赤く血走ったアルスの瞳が、サリアの青い双眸と交差する。
「……何が言いたい」
「あなた一人でイグニスを倒そうとしなくてもいい。ライゼンやウェンディ、ガウルも……皆で協力して戦術を組めば、必ず突破口は作れるわ。もちろん、私だっている。……わかってる?」
サリアの言葉は力強く、仲間の絆を信じる真っ直ぐなものだった。
だが、アルスの瞳にある冷徹な光は消えなかった。彼が戦いたいのは、大義名分や合理的な勝算や戦術からではない。もっと、剥き出しの「エゴ」だった。
「……いや。俺が、一人で倒さなければ意味がない」
「どうして? これは個人の決闘じゃないのよ。世界を脅かす化け物を倒すための戦いよ」
「違う」
アルスは地を這うような低い声で、サリアの言葉を真っ向から叩き落とした。
「世界のためだとか、そんな大層な話じゃない。これは俺の、ただの我執だ。俺の意地で、エゴで、制御の効かない感情だ。……他人の手を借りて薄めた勝利など、俺の魂が絶対に拒絶する」
アルスの脳裏を強烈によぎったのは、前世の記憶だった。
アルスは、何者にもなれなかった。必死にあがくこともなく、ただ流されて、試さなかった。自分という、武器がどこまで通じるか。自分だけでどこまで行けるか。アルスは知りたいのだ、もしその命が尽きようとも、どこまで行けたか、一番になれたか、そこだけが生きがいでこだわりだった。
馬鹿げた理由だと、思うかもしれないが、アルスにとってはそれがこの世界の全てだった。
理屈を超えた、狂気を孕んだアルスの拒絶。それでもサリアは引き下がらなかった。
「そんなのおかしいわ、アルス。あなたはそうやって、いつも誰も寄せ付けずに、壊れるまで一人で解決しようとする。でもね、私たちだってあなたが心配なのよ。一緒に戦いたいし、助けたいの。」
サリアの切実な訴えが、薄暗い書斎の空気を揺らす。
アルスは沈黙した。
この信念だけは、どれだけサリアに説かれようと、魂の形を変えない限り譲るわけにはいかなかった。
「……そっか。やっぱり、頑固ね」
サリアはそれ以上追及することを諦め、少し呆れたように、しかし温かさを残して立ち上がった。
「夕食、リリアさんに頼んであるから。今日は、冷める前に食べてね。……じゃあね」
「分かった」
バタン、と静かに扉が閉まり、彼女の気配が遠ざかっていく。
アルスは静寂が戻った書斎で、数秒だけサリアが座っていた椅子を見つめ、それからすぐに手元の紙へと視線を戻した。
(エネルギー変換の始動速度と、俺の肉体が放つ物理出力の絶対速度の差。魔力そのものを熱に変える干渉波の波形。どこかに、奴の知覚と術式にタイムラグが生まれる『特異点』条件があるはずだ。そこを突かなければ――)
思考の海に沈んでいく。
アルスがサリアとの約束を思い出すのは、それからさらに数時間が経過し、部屋の蝋燭がすべて燃え尽きようとする頃のことだった。




