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転生したのに魔法適性ゼロ、でも絶対一番になります!  作者: スンスンスン
魔界の門編

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70/79

70話 エゴ

 あの日、石切り場の荒野の決闘以来、アルスの生活は一変した。

 正確に言うなら、変わった部分と、不気味なほどに変わらない部分が混在していた。

 変わらない部分は、朝の訓練時間だ。

 夜が明けるか明けないかの薄暗い時間、アルスは以前と変わらず庭に出て、黙々と身体を動かしている。ただ、その精確さは増していた。寸分のブレも許さない関節の連動、呼吸の制御。かつてのような限界突破の試行錯誤ではなく、まるで精密機械が朝の起動テストを行うかのような、無機質で静かな狂気がそこにはあった。


 変わった部分は、それ以外のすべての時間だった。


 食事を早く終わらせるようになった。味わうためではなく、単に細胞の維持に必要な有機物を胃に放り込む作業のように、数分で平らげる。


 会話を極端に短くするようになった。言葉を交わす時間すら惜しむように、相手の意図を最小限の単語で処理すると、すぐに背を向ける。


 そして、一日の大半を薄暗い書斎に籠もって過ごすようになった。


 書斎の机の上には、異様な量の紙がうずたかく積み上がっていた。


 アルスが狂ったようにペンを走らせ、書き連ねている思考の残骸。それらをリリアはある日、部屋の掃除に立ち入った際、偶然に一枚だけ目にした。


 そこに並んでいたのは、魔術の数式ではなかった。


 おぞましいほど精緻に描かれた人体の筋肉や神経の断面図。そこから放射状に伸びる無数の矢印、謎の対数グラフ。


 そして――。


『熱変換の臨界点』『分子間運動エネルギーの損失率』『接触前から干渉可能な最大距離の相関性』


 インクが滲むほど強い筆圧で何度も書き殴られ、丸で囲まれたそれらの言葉。


 リリアは直感で理解した。これはすべて、あの荒野でアルスの半身を消し炭にした『赤髪の天災イグニス』を解析し、殺すための、冷徹な殺人カルテなのだと。


「アルス様、夕食の時間です」


 夕闇が書斎を支配し、蝋燭の火が小さく揺れる中、リリアが静かにドアを開けた。


 アルスは「ああ」と短く返事をしたが、視線は手元の紙から一ミリたりとも離そうとはしない。


「後で食べる」


「今日で、三日連続でございます、アルス様」


 リリアの静かな、しかし確かな非難を含んだ声にも、アルスのペン先は止まらない。紙に滑る硬い金属音だけが部屋に響く。


「分かった。……後で食べる」


 その「後で」という約束が果たされるのは、いつも深夜の寝静まった時間だった。


すっかり冷め、脂の固まったスープと硬くなったパンを、アルスは暗闇の中でただ一人、事務的に数分で胃に流し込んでいた。


 サリアが屋敷を訪ねてきた日があった。


 アルスが書斎から一歩も出てこない間、サリアは客間のソファに座り、静かに一時間ただ待ち続けた。だが、いつまで経っても扉が開く気配はなく、アルスの姿を見ることは叶わなかった。ついにしびれを切らしたサリアは立ち上がり、制止しようとするリリアを軽く手で遮ると、廊下を突き進んで直接、書斎の重い扉をノックもせずに開けた。


 アルスはやはり、紙の海に埋もれていた。


「少しいい?」


 サリアが部屋の入り口で、静かに佇む。


「なんだ」


 アルスはペンを動かしたまま、低く応じる。


「最近、修行ばっかりね。寝る間も惜しんで」


「研究だ」


「研究でも、修行でも、私にとっては同じよ。……ちゃんと、ご飯食べてる?」


「食べてる」


「ちゃんと?」


「『ちゃんと』という定義が極めて曖昧だが、必要量は摂取している」


 冷淡極まりないアルスの返答。サリアは小さくため息をつくと、歩み寄ってアルスの机の向かいにある椅子を引き、静かに腰掛けた。


 アルスのペンが一瞬だけ、その音を止める。


「アルス、少し聞いてもいい?」


「何だ。手短にしろ」


「……あの戦いから、ずっとイグニスのことを考えてるでしょ」


「分析し、研究している。奴の防壁の自律魔法、そのタイムラグの有無、熱変換の限界値。それらを攻略しなければ、次は確実に死ぬ」


「それは、机の上の紙を見れば、あなたがどれだけ必死かくらい分かるわ。ベッドに入っても、頭の中であいつと戦ってるのでしょうね。でもね、アルス」


サリアはそこで一度言葉を切り、机の上の紙束を見つめ、それからアルスの目を真っ直ぐに見据えて言った。


「そこまで一人で抱え込まなくてもいいのよ」


その言葉に、アルスはかすかに眉をひそめ、ようやく書斎の紙から、目の前の少女へと視線を上げた。


疲弊し、赤く血走ったアルスの瞳が、サリアの青い双眸と交差する。


「……何が言いたい」


「あなた一人でイグニスを倒そうとしなくてもいい。ライゼンやウェンディ、ガウルも……皆で協力して戦術を組めば、必ず突破口は作れるわ。もちろん、私だっている。……わかってる?」


サリアの言葉は力強く、仲間の絆を信じる真っ直ぐなものだった。


だが、アルスの瞳にある冷徹な光は消えなかった。彼が戦いたいのは、大義名分や合理的な勝算や戦術からではない。もっと、剥き出しの「エゴ」だった。


「……いや。俺が、一人で倒さなければ意味がない」


「どうして? これは個人の決闘じゃないのよ。世界を脅かす化け物を倒すための戦いよ」


「違う」


アルスは地を這うような低い声で、サリアの言葉を真っ向から叩き落とした。


「世界のためだとか、そんな大層な話じゃない。これは俺の、ただの我執だ。俺の意地で、エゴで、制御の効かない感情だ。……他人の手を借りて薄めた勝利など、俺の魂が絶対に拒絶する」


アルスの脳裏を強烈によぎったのは、前世の記憶だった。


アルスは、何者にもなれなかった。必死にあがくこともなく、ただ流されて、試さなかった。自分という、武器がどこまで通じるか。自分だけでどこまで行けるか。アルスは知りたいのだ、もしその命が尽きようとも、どこまで行けたか、一番になれたか、そこだけが生きがいでこだわりだった。

馬鹿げた理由だと、思うかもしれないが、アルスにとってはそれがこの世界の全てだった。


理屈を超えた、狂気を孕んだアルスの拒絶。それでもサリアは引き下がらなかった。


「そんなのおかしいわ、アルス。あなたはそうやって、いつも誰も寄せ付けずに、壊れるまで一人で解決しようとする。でもね、私たちだってあなたが心配なのよ。一緒に戦いたいし、助けたいの。」


サリアの切実な訴えが、薄暗い書斎の空気を揺らす。


アルスは沈黙した。


この信念だけは、どれだけサリアに説かれようと、魂の形を変えない限り譲るわけにはいかなかった。


「……そっか。やっぱり、頑固ね」


サリアはそれ以上追及することを諦め、少し呆れたように、しかし温かさを残して立ち上がった。


「夕食、リリアさんに頼んであるから。今日は、冷める前に食べてね。……じゃあね」


「分かった」


バタン、と静かに扉が閉まり、彼女の気配が遠ざかっていく。


アルスは静寂が戻った書斎で、数秒だけサリアが座っていた椅子を見つめ、それからすぐに手元の紙へと視線を戻した。


(エネルギー変換の始動速度と、俺の肉体が放つ物理出力の絶対速度の差。魔力そのものを熱に変える干渉波の波形。どこかに、奴の知覚と術式にタイムラグが生まれる『特異点』条件があるはずだ。そこを突かなければ――)


思考の海に沈んでいく。


アルスがサリアとの約束を思い出すのは、それからさらに数時間が経過し、部屋の蝋燭がすべて燃え尽きようとする頃のことだった。


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