69話 退屈の先
荒野に満ちる超高熱が、ゆっくりと陽炎となって揺らめいている。
左半身をボロボロに焼け焦がし、白煙を上げながら膝を折る俺を見下ろし、イグニスは酷くがっかりしたような、退屈そうな表情を浮かべた。
「まさか、これで終わりか? これでは、あの小賢しいだけのイゾルデとほとんど変わらないな……。魔石を喰らう化物と聞いて期待していたんだが、所詮ただの人間だったか」
吐き捨てられる侮蔑。だが、俺の耳には届いていなかった。
焼け爛れた肺に空気を送り込むたび、喉の奥から炭化した皮膚の粉末がせり上がる。
(――何を悩んでいる?)
自分自身への苛立ちが、脳髄をじりじりと灼いた。
何を怯えている。いつだってそうだ。俺のこれまでの戦いに、最初から用意された答えや、勝利の確実性なんてものは存在しなかった。限界を測るな。勝算を計算するな。今、俺の持てるすべてを、ただ全力で奴にぶつけるしかないんだ。
悩むな。理屈を捨てろ。ただ、ぶち壊せ。
俺は血塗れの右手を震わせながら懐に突っ込み、予備の、それも極めて魔力の多い魔石を、三つ同時に取り出した。
「駄目よ! アルス、魔石をそれ以上取り込んではいけないわ! 限界を超えて暴走するわ!」
後方から響くサリアの悲痛な制止の声。だが、俺はその叫びを完全に黙殺し、魔石をまとめて口腔へ放り込み、奥歯で噛み砕いた。
奴を倒すためなら、なりふり構ってなどいられない。今の俺のすべてを、命の残り火のすべてを、この一撃に注ぎ込む!
「素晴らしい! まだ、その上があるのか!」
イグニスが、その邪悪な瞳に狂信的なまでの歓喜を宿して吼えた。
直後、俺の体内で魔石の魔力が、内臓を破裂させんばかりの暴虐的な濁流となって暴れ狂った。
全身の血管が太いミミズのように脈打ち、引き裂かれそうになる肉体を、脳の命令によって必死に繋ぎとめる。取り込んだだけで魂が吹き飛びそうになるほどの強烈な意識の混濁。だが、それを生存本能だけで耐え抜く。リスクなど百も承知だ。
噴き出す黒い魔力を、俺はそのまま全細胞に強制的に閉じ込める。
激しい超振動。右腕の骨組織、筋肉組織、そして毛細血管が、超高速の振動によって、「自壊」と「再生」を狂ったように繰り返し始める。
「イグニス! これが、最後だ!」
イグニスは牙を剥くようににやりと笑う。
「来い、アルス!」
地面を陥没させ、俺は前方に駆け出した。土煙を上げイグニスに肉薄し、今までのすべてを載せて拳を突き出す。直前、やはりイグニスの防壁が働き、拳の速度が急速に減速し、激しい炎を上げて燃え始める。イグニスが指を弾いた瞬間、俺の全身を覆っていた風の防壁も霧散し、剥き出しの表皮が数千度の超熱波に直接灼かれだす。
――ここまではいい。想定内だ。
「おいおい、さっきと一緒じゃないか。諦めたのか?」
イグニスが嗤う。
超振動の過負荷とイグニスの熱により、突き出した俺の右手の肉と血が、限界を迎えて破裂するように弾け飛んだ。骨が剥き出しになる。
だが、俺は狂気に満ちた笑みを崩さなかった。
「イグニス……俺の肉体って、どこまでだろうな?」
俺の目は、まだ一歩も退いていなかった。むしろ、獲物の喉笛を確実に食いちぎる瞬間の、獰猛な野生の獣のように鋭く、冷徹にイグニスの肉体を見据えている。
「――ッ!?」
イグニスは、生まれて初めて、戦闘中に「得体の知れない不気味な脅威」を肌に感じた。
目の前にいるのは、死にかけの、燃えカスの人間だ。あり得ない。こんな生物に、自分が恐怖に近い圧を覚えるなど。
だが、イグニスが持つ天性の戦闘センスが、彼の意思に反して肉体を防御へと弾いた。とっさに両腕を交差し、顔面をガードする。
次の瞬間、鈍い破壊音を立てて、イグニスの手の表皮が突如として張り裂け、鮮血が噴き出した。
「バカな……ッ! 当たっていないはずだ!」
イグニスが、驚愕にその紅い瞳を大きく見開く。彼の領域によって、アルスの拳は確実に数センチ手前で停止し、熱へと変換されていたはずだった。
「当たってるぜ! このまま、粉微塵にしてやる!」
俺はさらに、ボロボロになった右腕を強引に押し込んだ。
イグニスは血まみれになった自身の腕を視界に捉え、その痛みを気にする素振りすら見せず、ただ歓喜に顔を歪めた。
「あははははっ! 俺に傷をつけたのは、生涯お前だけだよ、アルス! 最高じゃないか、お前は!」
イグニスがさらに追加でアルスの周囲の空間そのものを熱へと上書きする。
アルスの全身の表皮は炭化して焦げ、肉の焼ける悍ましい異臭が漂う。だが、それでも魔石のエネルギーで再生を続けながら、狂ったように拳を前へと押し込み続けた。超振動の衝撃波がさらに伝播し、イグニスの両腕を、そして胴体に、わずかながら、しかし確実に物理的なダメージを蓄積させていく。
なぜ攻撃が届いたのか。
それは、イグニスの前で弾け飛んだ、アルスの「肉片」によるものだった。
アルスは、自身の肉体から剥がれ落ち、空間に飛び散った千切れた肉片や血液の粒子に至るまでを『自身の肉体の一部』として認識し、それらの分子振動を完全に制御下に置き続けていたのだ。
自律して超振動を続ける肉片の飛沫は、イグニスの物理変換術式から「攻撃」として認識されずすり抜けることに成功した。イグニスの完璧な防御から、アルスは自身の肉を囮にすることで、完全に逃れてみせたのだ。
だが、その奇跡的な拮抗も、わずかな時間しか持たなかった。
イグニスの放つ絶対的な魔力の物量と、空間ごと焼き尽くす高熱の魔法により、アルスの身体は容赦なく灰へと変えられていく。
アルスに引く気は微塵もなかった。だが、過剰摂取した魔石の拒絶反応と、超振動による自壊、そしてイグニスの熱。肉体の破壊と再生の限界が、ついに訪れた。
「が……、は……」
意識が真っ白に染まり、急速に遠ざかっていく。
力尽き、制御を失ったアルスの肉体は、イグニスが放った凄まじい熱魔法の衝撃波によって、木の葉のように激しく後方へと弾き飛ばされた。
ドサリ、と砂煙を上げて荒野の地面に転がるアルスの身体。
イグニスは、血塗れになった自身の両手を見つめ、それから倒れ伏したアルスを見下ろした。その表情には、戦いへの満足感と、それ以上の、未来への歪んだ期待が満ちていた。
「アルス、お前は本当に面白い奴だ。この退屈な世界で、俺と遊べるのはお前だけだ」
イグニスはゆっくりと背を向け、去り際に声を残した。
「このまま、死ぬなよ。次に会う時までに、俺を倒せるくらいに成長してくれ。」
その言葉を最後に、イグニスの気配は荒野の陽炎の彼方へと消え去っていった。
アルスは意識を失ったまま、崩壊した半身を魔石の残光でピキピキと再生させながら、ただ静かに地面に横たわっている。
「アルス――ッ!」
「師匠!!」
静寂の戻った荒野にサリアとレオンの悲痛な叫びが響き渡り、二人は倒れ伏したアルスのもとへと、駆け寄っていった。
この日、アルスはイグニスに完璧な敗北をした。




