68話 イグニスの魔法
石切り場の跡地は、地平線の彼方まで遮るもののない、夕日に赤黒く染まった不毛の荒野だった。乾いた風が吹き抜けるたび、微細な砂礫が不快な音を立てて転がる。
二十メートルの距離を挟んで、アルスとイグニスは対峙していた。その張り詰めた空気を切り裂いたのは、イグニスの底知れない、退屈そうに地を這う声だった。
「おい、アルス。お前が魔石を喰らう化物になったというからわざわざ足を運んでやったんだ。お前の本当の姿を早く見せてくれ」
イグニスは構えすら取らない。重心を左右どちらにも偏らせず、ただ両腕をだらりと重力に従って下げ、傲慢極まりない眼差しでアルスを見下している。
アルスは言葉を返さない。全神経を視覚と魔力感知に注ぎ、その眼はサーモカメラのようにイグニスの体表温度、血液の流れ、魔力の微細な揺らぎを精緻に観察していた。イグニスの炎攻撃は一撃必殺。どこからどのような角度でが来ても、肉体を適応させられるよう、緊張状態に保つ。
「……よほど俺の魔法が怖いようだな」
イグニスが、ただ軽く、煩わしい羽虫を払うかのように指先を弾いた。
その指先を中心に、数千度という超高熱が急速に膨れ上がり、目にも留まらぬ速度で一直線に迫ってくる。刹那、予兆なくアルスの目の前の空間そのものが一瞬で「沸騰」した。
ドンッ!!!
鼓膜を内側からぶち破るような凄まじい重低音の衝撃波と共に、大気が超高温によって膨張し臨界突破。目に見えない透明な熱の槍がアルスを襲う。
アルスは熱波が到達する前、すでに真横へと跳んでいた。ほんの一瞬、判断が遅れていれば、その爆発で首から上が消し飛んでいただろう。
アルスが着地した瞬間、遅れて、ズガァァァン!!! と大気を切り裂く轟音が炸裂し四方の草木が激しく発火し、凄まじい爆風と酸素を奪い合う炎の嵐が荒野を赤く染めながら吹き荒れる。
アルスは辛うじて攻撃をやり過ごした極限の緊張感の中、着地の衝撃を関節で殺しながら、冷静に脳内で事象を解析していた。
(何だ、この違和感は……)
アルスの直感が、不気味な警鐘を鳴らしていた。単なる炎魔法ではない。イゾルデの炎魔法とも違う。
アルスは呼吸を整え、次のイグニスの動きに全神経を集中させる。
「おいおい、ずっとそうやって逃げ回るつもりか?」
イグニスは、期待を裏切られた子供のようにひどくがっかりした様子で息を吐き、すぐにニヤリと歪んだ酷薄な笑みをその端整な顔に浮かべた。
「では、お前がその魔石の力を使わざるを得ないほどの、決定的なダメージを負ってもらおう」
イグニスは右手の上に、凄まじい密度の魔力を集束させ始める。
その瞬間、アルスはイグニスの手元で、魔力が、物理的な「熱」そのものへと変換される決定的な瞬間を目撃した。
(魔力が、直接『熱』に変化しているのか!?)
イグニスはその手の中の熱の塊をこちらにかざすと、無造作に放つ。
飛来した熱波はアルスの手前十メートルの位置で、爆発的に三叉の軌道へと枝分かれする。
(広域の同時飽和攻撃か。――これでは、躱しきれない!)
アルスは回避を最小限に留める判断を下すと同時に、懐から魔石と結晶の欠片を取り出し、バリバリと咀嚼して飲み込んだ。魔石のエネルギーを全て防御の生成へと意識集中させる。
ドカァァァーーン!!!
直撃こそ紙一重で免れたものの、周囲の大気温度が瞬時に数千度まで急上昇し、暴虐的な放射熱がアルスの肉体を容赦なく焼き焦がしていく。
「うぉ、おおおおお――ッ!」
熱風が引いた後、モクモクとした不気味な黒煙が開けると、そこには全身が黒い塊となったアルスの姿があった。
「し、師匠がまる焦げに――!?」
遠巻きに見ていたレオンが悲鳴を上げる。その隣でサリアが目を見開く。
「いや、違うわ……あれは……!」
アルスの体表から、ボロボロと黒い皮のようなものが煤となって剥がれ落ちていく。
それは、イグニスの熱魔法に対抗するため、アルスが生成した『人工耐熱表皮』だった。風の真空二重膜で遮断しきれない恐るべき放射熱を、体外に急速生成した伝熱皮膜で受け流し、耐熱限界を超えた表皮を次々に剥離排出しながら、内部の真皮や臓器を守るという、生物学的適応の極致。
「そうだ、それでいい。さぁ、その頼りない盾で、俺の熱にどこまで耐えられるか見せてくれ!」
イグニスが初めて、その邪悪に濁った瞳に、本物の愉悦を宿して叫んだ。
「おいおい、うるせぇ野郎だな。そんなに死にたきゃ、今すぐに望み通り殺してやるよ!」
アルスは体内の魔石の暴走によってハイになりかける精神を、力ずくで押さえ込み、観察を続ける。このまま防戦一方で熱を浴び続ければ、細胞の耐熱生成が追いつかなくなり、いずれ焼き殺される。
アルスは懐から二丁の特製魔法銃を引き抜くと、魔力を最大充填し、イグニスに向けて一斉にトリガーを引いた。
携帯式の銃身は、アルスの強大すぎる出力に耐えかね、放出の衝撃と共に一瞬で粉々に弾け飛ぶ。
ドンッ!!!
アルスの魔力によって限界まで表面をコーティングされ、音速にまで加速された二発の鉄弾が、イグニスの眉間と心臓目掛けて一直線に肉薄する。
だが、イグニスはつまらなそうに鼻を鳴らし、いつも通り避ける素振りすら見せず棒立ちのままだ。弾丸が彼の体表に触れる直前、キィンと空間が歪み、二発の鉄弾はただの熱へと変わり果てて消滅した。
(――見えた。熱の防壁を予め展開していたんじゃない。弾丸が接触する『瞬間』に、イグニスの防衛魔法が弾丸に熱を加えている。なら――イグニスがそれを視認、認識するより早く、死角から攻撃を仕掛ければ、魔法の発動自体を封じられるはずだ)
アルスは地面を力強く踏み抜き、凄まじい衝撃波で荒野の乾いた土壌を爆発させ、巨大な土煙のカーテンを発生させた。
一瞬にして視界を遮断し、感知を狂わせる。その煙の向こう側を、風の推進力で一瞬にして駆け抜け、アルスはイグニスの完璧な背後へと回り込む。
死角。視界の外。
アルスはそこから予備の魔法銃を放ち、同時に、地面に落ちている岩を上空へ蹴り上げ、放物線を描いて同時にイグニスの脳天へと撃ち落とした。
だが、イグニスは終始、退屈そうに棒立ちのままだった。
アルスの神速の回り込みについて来られないのではない。回避する必要性を、端から感じていないのだ。
アルスが放った背後からの射撃は、イグニスの背中に触れる直前で、まるで陽炎のように熱気へとなり、溶けて消失した。
そして、上空から落下してきた岩も同様だった。質量がイグニスの頭上に迫った瞬間、指一本動かさずに消滅した。
イグニスは、ゆっくりとこちらを振り返ると、深い失望を込めてため息をついた。
「威勢がいいのは、口だけか?」
(これは、思った以上に厄介だ……。あの防御は、完全にオートだ。どういう原理かは分からんが、対象を自動識別し、熱により燃やし尽くしている。だが、こちらも再生の魔石と人工耐熱皮膜がある以上、一撃でやられはしない。即死でなければ、俺の肉体は、何度でも再生する)
意を決して、アルスは左拳に魔力を一点集中させる。
荒れ狂う漆黒の魔力が腕に集束し、まるで巨人の腕のような質量となってアルスの左半身を覆う。そして、その魔力の腕全体に、『超振動』の波動を限界まで上乗せした。
「そうだ。それでいい! お前の魔石の全力を、俺の肉体にぶつけてみせろ!」
イグニスは狂信的な笑みを浮かべ、歓喜に叫んだ。
アルスは地面を爆破するようにして前方に駆け出す。もはや小細工は無用。この、空間ごと粉砕する超振動の一拳を、奴の防壁ごとぶち込むだけだ。
狙いは、イグニスの不敵な顔面。
アルスは渾身の力を込め、一直線に突撃し拳を振り抜いた。
だが。
イグニスの鼻先、あと数ミリという極限の距離に達した瞬間、突如として拳の速度が不自然に急減速し、腕全体が高熱に包まれた。
(何だこれは!? 速度が、吸い取られていく……!熱に変換されているのか!?)
イグニスは、今回の戦闘で初めて、自身の意志によって防御の腕を動かした。軽く人差し指を弾く。
その瞬間、アルスが魔力で具現化していたはずの超振動の腕が、跡形もなく消滅し、高熱へと変化した。
(馬鹿な!? 物理エネルギーだけでなく、俺の『魔法』そのものまで熱に変換して無効化したのか!?)
その凶悪な熱は、アルスの腕と、左半身を容赦なく襲った。風の防壁も、干渉を受けてすべて根こそぎ消滅させられていた。
「が、あああああああッ!!」
アルスは焼け焦げる左腕を無理やり引き戻し、全身から噴き出す風の推進力で、一気に後方へと飛び退いた。
左半身を炭化させ、骨が剥き出しになってグズグズになった身体を、引きちぎれるような激痛の中で無理やり細胞分裂させて修復しながら、アルスは焦燥の汗を流して思考を巡らせる。
(これは……オートの防御魔法が『速度』を熱に変え、それとは別に、イグニス本人の干渉魔法が『魔法そのもの』を熱に上書きして消滅させる……。だが、奴の干渉魔法とて、俺の細胞の再生能力や、腕の内部深くに収められた魔石の根源までは、消し去ることはできない)
理解はした。だが、勝ち筋が見えない。
夕日が、石切り場の岩盤を赤く染めていた。
アルスは、焼けた腕を握り締めたまま、その先を考え続けた。




