63話 異常の正体
翌朝、レオンはふらふらとした覚束ない足取りで訓練場に姿を現した。
昨夜、自らの身体の底で蠢いた「異常」の感覚――それを誰かに打ち明けるつもりは毛頭なかった。言葉にしたところで確かめようもないし、何より、一度でも口にしてしまえば、その恐怖が「逃れようのない現実」として確定してしまうのが恐ろしかったのだ。
だが、アルスは違った。レオンが訓練場の土を踏みしめたその最初の一歩、その僅かな立ち姿の歪みだけで、少年の身に起きた異変の全てを察知していた。
「座れ」
「……訓練じゃ、ないんですか」
「座れと言っている」
反論する気力すら湧かず、レオンは訓練場の端に置かれた歪な石段に力なく腰を下ろした。
アルスは一言も発さず、彫像のように佇んだままレオンをじっと観察する。その顔色は土のように濁り、目の下には死人のような濃い隈が落ちていた。そして何より――その「瞳」の光が狂っていた。
「レオン。目を開けたまま、右を見ろ」
「え……? あ、はい……こうですか」
レオンが指示に従い、視線を横へと動かした刹那、アルスの鋭い眼光がさらに細まった。
虹彩の縁。普通の人間であれば絶対に見落とす極小の領域。だが、細胞の微細な変質すら見逃さないアルスの眼には、はっきりと捉えられていた。
右の虹彩の端に、ほんの一ミリにも満たない黒い泥のような染みが滲んでいる。澄んだ水の中に落とされた一滴の黒インクのように、それはじわりと、しかし確実に生きた領域を侵食していた。
「服の上から腹を触るぞ。動くな」
「急に、何を……」
「黙っていろ」
アルスは無骨で分厚い右手を、レオンの腹部へと静かに当てた。
全神経を五感の極限へと集中させ、皮膚、筋肉の層を透かし見、その奥深くで打つレオンの命の拍動を聞き取ろうとする。
――そして、触れた。
微弱だが、あまりにも悍ましい「別の脈動」。
レオン自身が必死に生きようと刻む鼓動のリズムとは完全に重ならず、粘ついた歪な周期で、何かが確かに肉の奥底で蠢動していたのだ。
「アルス様、サリア様がお見えです。朝の定期検診のお時間だと――」
「ちょうどいい。サリアをここへ呼べ。今すぐだ!」
訓練場に駆け寄ってきたリリアは、アルスの聞いたこともない悲壮な怒号に息を呑み、弾かれたように来た道を駆け戻っていった。
石段の上で、レオンが力なくアルスを見上げる。
「師匠……俺の身体、どこか、悪いんですか」
アルスは一秒の躊躇もなく、残酷な事実をそのまま告げた。
「お前の中に、なにか魔物が寄生している」
「寄生、って……そんな、嘘だ……」
レオンは自身の腹へ視線を落とした。服の上からは何も見えない。内側からも、今は何も感じない。だが、自分の身体の中に「自分ではない化け物」が巣食っているという事実だけが、じわじわとレオンの魂を冷たい恐怖で侵食していく。
数分後、サリアが風を切って訓練場へ駆け込んできた。
「アルス、一体何が――」
言い終えるより早く、サリアはアルスに促されるままレオンの腹部へそっと手を当てた。
次の瞬間、彼女の美しい顔立ちから血の気が完全に引き去った。
「嘘……寄生型の魔物……!? こんなの、聞いたことがないわ……!」
「進行度はどうだ」
「……最悪よ。体内の魔力の流れが完全に二系統に分裂してる。根が、もう脊髄の神経叢にまで届きかけてるの。このままだと、いつ魔物に乗っ取られてもおかしくないわ――」
「俺の意識が、乗っ取られる!?」
レオンが、乾いた失笑を漏らしながらサリアの言葉を奪った。
「俺が、俺じゃなくなる。あいつみたいに、ドロドロの鉄と肉の化け物になって……師匠やみんなを襲うんだ……。サリアさん。治癒魔法で、こいつを消し去ることはできないの?」
サリアは唇を血が滲むほど固く噛み締め、絶望に満ちた目で力なく首を振った。
「外側からのアプローチじゃ根が深すぎる……! 私の治癒魔力で強引に寄生体を焼き切ろうとすれば、同時にレオン君の主要な神経まで傷つけてしまうわ。そんなことをしたら、レオン君自身が死ぬかもしれない……!」
「つまり、手遅れってことですね」
レオンの視界の端が、急速に濁った黒で染まり始めていた。脳の奥深くを、冷たい鉄針で抉られるような激痛。
――ガガッ、主……の、御為、に――。
脳裏に、あの死んだはずの重装騎士の不快なノイズが直接響き始める。レオンの右腕が、本人の意志とは完全に乖離してピクリと跳ね、指先が不自然な角度で硬直した。
「あ……が、あああああッ!!」
レオンは頭を抱え、石畳の上をごろごろと転がりのたうち回った。すでに右半身のコントロールが失われつつある。乗っ取りの速度が、サリアの予測を遥かに超えて加速していた。
「師匠……っ! もう、ダメ、だ……! 完全に、化け物に乗っ取られる……ッ!!」
レオンは涙と油汗で顔をくしゃくしゃに歪ませながら、すがりつくようにアルスの足首を掴んだ。
「レオン君! 諦めちゃダメ、解決方法を急いで探し――」
「駄目だ! 今、もう脳みそが書き換えられてるんだ!!」
レオンの切叫。その右目の虹彩はすでに半分以上が漆黒に染まり、黒い深淵の奥に三対の不気味な眼球が蠢くような幻影すら見え始めていた。
「――敵……排除、スベ、シ……!」
突如、レオンの口から彼自身のものではない、おぞましい重低音のノイズが漏れ出た。
「ひっ……!?」
サリアが息を呑んで後退る。
レオンの右半身が、まるで悪意ある糸で強引に引かれた操り人形のように、バキバキと関節の悲鳴を響かせて跳ね上がった。その右腕が勝手に腰元へと伸びる。
掴んだのは、彼の愛用する『結晶剣』の柄だった。
「やめろ……動くな、俺の腕……っ! 動くんじゃねええええ!!」
レオンは涙を流しながら、左手で己の右腕を必死に掴み、力任せに引き剥がそうとした。しかし、寄生体が解き放つ人間離れした怪力は、レオン自身の制止を容易くねじ伏せる。
シャリィン――と、冷徹な金属音が訓練場の静寂を切り裂いた。
引き抜かれた結晶剣が、太陽の光を反射して不吉にギラリと輝く。
「最大、出力……ッ!!」
レオンの意志に反し、その右腕からドロリとした禍々しい黒い魔力が剣へと流れ込んでいく。結晶剣の刀身が瞬く間に赤黒い炎を上げて発火した。
「師匠、逃げ……っ! 身体が、言うこと聞かない……ッ! あ、足が、勝手に――!!」
レオンの左半身は恐怖に震え、涙を流している。しかし、漆黒に染まった右半身は、これまで積み重ねてきた修行の成果を完璧に体現した極上のフォームで、アルスの心臓目掛けて容赦なく踏み込んだ。
「魔物になるくらいなら……!」
迫り来る結晶剣の刃を真正面から見据えながら、レオンは残された僅かな意志の全てを振り絞り、喉をかきむしるように叫んだ。
「俺が、俺のままでいられるうちに、殺してくれ……っ!! お願いだ、師匠!! あんたの手で、俺を終わらせてくれ!!」
アルスは、涙を流しながら剣を突き出してくる弟子の姿を、じっと見つめていた。その瞳に、一瞬の迷いも揺らぎもない。
彼は腰の袋から、昨日の戦いで回収していた『魔石』を掴み出すと、それを迷わず口に放り込み、バリバリと凄絶な音を立てて噛み砕き、呑み込んだ。
直後――全身から、世界を拒絶するような黒い炎が爆発的に噴き出す。
「アルス、あなた何を――!」
「俺が、止めてやる」
アルスは低く、地鳴りのような声で言い放った。
赤黒い炎を纏って肉薄する結晶剣の切っ先。それがアルスの胸皮を捉える、まさにその刹那――。
「いくぞ、レオン」
次の瞬間、アルスの右拳が、肉眼では絶対に捉えられない神速で突き出された。




