62話 忍び寄るもの
三日後の朝、レオンは食堂のテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
いつもならアルスがやって来る前に訓練着へ着替え、一通りの準備を終えているのが日課だった。だが今日ばかりは、身だしなみを整える気すら起きない。頭の奥にこびりついた重い余韻が、身体の芯を麻痺させているようだった。
「レオン様、朝食をお持ちいたしました」
リリアが静かな手つきで、湯気の立つ皿をテーブルへ運んできた。香ばしい匂いが立ち上る。
「……ありがとうございます」
レオンは小さく頭を下げ、皿を受け取ると機械的にフォークを動かした。一口、二口と口に運んだものの、そこでぴたりと手を止めてしまう。
「食欲、ございませんか?」
心配そうに覗き込んでくるリリアに、レオンは苦笑いを浮かべた。
「少し……。なんでかよく分からないんですけど、ここ二、三日、どうしても食事があまり入らなくて」
「眠れてはいらっしゃいますか?」
問われて、レオンはフォークを置いたまま少し考え込んだ。
「……寝てはいます。ただ、なんだか変な夢を見るんですよね」
「変な、夢ですか?」
「上手く説明できないんですけど……暗くて、すごく狭い場所に閉じ込められている感じで。目が覚めるとき、いつも身体が妙に重いというか」
リリアはそれ以上何も言わず、ただレオンの少し影の差した顔を静かに見つめていた。その視線の真剣さに、レオンが居心地悪そうに身をすくめたところで、彼女はぽつりと呟いた。
「……アルス様にお伝えした方がいいかもしれません」
「大げさですよ。ちょっと疲れが出ているだけだと思います。あの激しい戦いのあとですし」
「それは、そうかもしれません。ただ――」
リリアは一度言葉を切り、言葉を選ぶように慎重に続けた。
「何か少しでも『おかしい』と感じたら、すぐに仰ってくださいね。大げさであっても構いませんから」
どこか切実さを孕んだその言い方に、レオンは胸の奥でかすかな引っかかりを覚えたが、深く追及することはせず黙って頷いた。
その日の午後、訓練場には二人の足音が重く響いていた。
木剣を振るうレオンの動きを、アルスは壁際に佇んだまま鋭い眼光で見つめている。
(おかしい――)
何が、と即座に指を挿せるわけではない。だが、アルスの直感が、明白な違和感を告げていた。
動作のタイミングが少し遅い。その程度のズレであれば、過度な疲労や体調不良でも説明がつく。しかし、アルスが真に眉をひそめたのは、体調の良し悪しとは別の「癖」の発生だった。
レオンの右手だ。
構えをとる際、左右の手にかける重心の比率が微妙に狂っている。今まで無駄な癖など一切なかったその動作に、ほんのわずか、何かを恐れて庇うような不自然な引きしろが混じっていた。
「レオン、右手を見せろ」
アルスの低く短い声が、訓練場を打った。
レオンは唐突に木剣を収め、首をかしげた。
「え? 何ともないですよ」
「見せろと言っている」
抗いがたい威圧感に圧され、レオンは少し戸惑いながらも素直に右手を差し出した。
アルスはその手首を強く掴むと、手のひらを返して内側の状態を精査した。
傷もない。腫れも、変色もない。だが――人差し指の付け根にかかる極小の範囲だけ、皮膚の質感が周囲とわずかに異なっていた。
傷痕にしては古く馴染みすぎている。何かを強固に握りしめ続けた痕のようでもある。
「……何か、ありますか?」
「いや」
アルスは思考を覆い隠すように短く答え、不意に手を離した。
違和感の正体について、まだ確信が持てない。下手に問い詰めて意識させるべきではないと判断したのだ。
「今日の訓練はここまでだ」
「えっ、まだ一時間もやってないですよ?」
「明日また来い。……以上だ」
レオンは不満げに眉をひそめたが、アルスの決定を覆せないことを知っていたため、それ以上は何も言わずに訓練場をあとにした。
アルスは去り行く少年の背中をじっと見送りながら、先ほど手指の皮膚越しに感じ取った、微かな異物感を頭の中で何度も反芻していた。
夜が静かに深まり、館が深い静寂に包まれた頃。
レオンは自室のベッドの上で、目を覚ました。
また、あの夢だ。暗く息苦しい夢。
しかし今夜の夢は、いつもと明確に違っていた。暗闇の中で、何かが蠢いていたのだ。狭く閉ざされた空間の底を、細くしなやかな「何か」が滑るように這い回っていた。
そして何より恐ろしいのは――それが自らの肉体の「内側」で蠢いているような、生々しい感覚が残っていることだった。
(ハァ……ハァ……っ)
全身にねっとりとした冷や汗をかいていた。レオンは大きく深呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと身体を起こす。
部屋の中は静まり返り、冷たい月の光だけが窓から差し込んで床を白く照らしていた。
不意に、腹の右側に重苦しい違和感を覚えた。
鈍い圧迫感。……いや、ただの気のせいだろう。疲れと悪い夢のせいで神経が過敏になっているだけだ。レオンは自分にそう言い聞かせ、再び枕に頭を沈めて静かに目を閉じた。
――その、直後だった。
腹の右側で、何かが、ほんの僅かに「蠢いた」。
筋肉の痙攣でも、消化器官の収縮でもない。皮膚のすぐ下、肉の隙間を滑るような――明確な意志を持った自律的な動き。
ゾクッ、と悪寒が全身を駆け抜けた。
レオンは身体を硬直させ、指先ひとつ動かせぬまま息を止めた。暗闇の中、胸の鼓動だけが異常なうるささで耳奥に響く。
――何か、いる。




