50話 世界最強の魔法使い
夜風が、黒い灰を巻き上げていく。
静寂が支配するクレーターの中心で、イゾルデはただ、ガタガタと己の四肢を震わせるしかなかった。
目の前の男――イグニスは、未だに指一本動かさず、ただそこに佇んでいるだけだ。だというのに、イゾルデの魂の最深部、魔族としての狂暴な本能が、鼓膜が破れんばかりの大音量で警鐘を鳴らし続けていた。
(逃げろ。逃げろ。逃げろ。)
それは、生まれて初めて味わう純然たる『死』の気配。
だが、あまりの恐怖に脳の命令が神経へ届かない。誇り高き四天王の肉体は、まるで泥で固められたかのように、一歩たりとも動かすことができなかった。
ザッ、と微かな足音が響く。
イグニスが、ゆっくりと歩みを進めてきた。
一歩、また一歩と、灰の地面を踏み締めて近づいてくる。その足取りはあまりにも自然で、まるで優雅な夜の散歩のようですらあった。しかし、彼が近づくにつれて、周囲の空気の質量が倍加していくかのような、凄まじい精神的圧迫感がイゾルデにのしかかる。
「あ……、あ、ありえ……、あ、あ―――っっっ!!!」
恐怖が極限を突破し、イゾルデの喉からまともな言葉にならない、半狂乱の悲鳴が迸った。
美しい顔を恐怖に歪ませ、涙と涎を撒き散らしながら、彼女は狂ったように両手を突き出す。
ドガガガガガガガッ!!!
放たれるのは、彼女の命を削るかのような猛烈な黒炎の弾幕。連射された炎の塊が、狂暴な獣となってイグニスへと襲いかかる。
だが、イグニスはそのすべてを、ただの「無」として無視して突き進んだ。彼の肌に触れる寸前で、黒炎は一筋の煙すら残さず、さらさらと世界の理から消去されていく。
ついに、イグニスの影が彼女を完全に覆う。
彼の手が届く範囲、その絶対的な死線に踏み込まれた瞬間、イゾルデの膝がガクガクと砕け、彼女はその場に無様にへたり込んだ。見上げる男の輪郭が、恐怖の涙で歪んで見える。
イグニスは冷徹な、どこまでも温度の低い瞳で、足元の怪物をただ見下ろしていた。
「――お前には、がっかりだ」
その声は、ひどく静かだった。
「俺がアステリアに生まれ落ちた時から今まで、世話をしてやったというのにこの程度とはな。もっと俺を愉しませてくれると思ったのだが……お前はここで、俺に喰われて死ぬ定めだったんだよ、イゾルデ」
絶望に染まる彼女の視界の中で、イグニスの白い、細い手のひらがゆっくりと落ちてくる。
抗う術はなかった。
ポン、とイゾルデの額に、彼の温かい手のひらが優しく乗せられる。
イグニスが低く呟き、その手から膨大な魔力を直接、彼女の脳へと流し込んだ。
その瞬間、世界が一変する。
「ッガ、あああああああああああああああああああ―――ッッ!!!!!?」
内側からイゾルデの肉体の全細胞、全魔力、その存在そのものの限界を遥かに超越した「絶対的な熱」が発生した。
熱が、イゾルデの体温を狂暴に上昇させていく。皮肉にも、彼女の身体を包み込んだのは、彼女が愛用していた昏い黒炎ではなく、太陽のように純粋で、眩いばかりに真っ赤な、世界最古の炎だった。
「熱い! 熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!! 炎の魔族であるこの私が、燃える!? ありえない! こんなことが、あってたまるかァァァッ!!」
のたうち回り、地面に頭を擦り付けながらイゾルデが絶叫する。
だが、炎は情け容赦なく彼女の存在を焼き削っていく。ドロドロと、彼女の美しい白磁の肌が熱蝋のように溶け出し、地面へと滴り落ちる。指先が、四肢が、魔王軍四天王としての強固な肉体が、内側からの超高熱に耐えかねて形を失い、液状化していく。
炎の魔族を、炎で焼き溶かす。それは世界の法則を根底から覆す、あまりにも不条理な暴力だった。
イグニスは、そのドロドロと溶けゆく異形を、感情の消えた瞳で見つめたまま、静かに告げた。
「ありえるよ。……お前の前にいるのは、世界最強の魔法使い、イグニスなのだから」
「あ……、あ……」
ドロドロに溶け、今や頭部と胸元を残すのみとなったイゾルデの紅い瞳に、最後の、そして最大の絶望が宿る。
世界最強の魔法使い。
目の前にいるのは、ただの人間ではない。人間という枠組みを遥かに逸脱した、この現世が生み出した最大のバグ、魔王すら凌駕しかねない神の領域の化け物。
消えかかり、崩壊していく意識の中で、彼女は残された力を振り絞り、夜空の月へと手を伸ばそうとした。
「魔王軍を……率いる、この私が……。こんな、ところで……。魔王、様……、申し、訳……あ、りま、せ……」
――サラ……。
それが、彼女の最後の言葉だった。
伸ばしかけた手のひらは崩れ、次の瞬間、激しい赤い炎が彼女のすべてを完全に喰らい尽くした。
肉体も、骨も、魂も、魔王軍四天王としての誇りさえも。
残ったのは、地面を真っ黒に汚す僅かな燃えカスと、風に舞う灰だけ。世界を震撼させた天災イゾルデは、この世界から、一木一草の痕跡すら残さず完全に消滅した。
ゴォォォ……と、主を失った赤い炎が、夜風に吹かれて寂しげに消えていく。
「……はぁ」
静寂が戻った森の中で、イグニスはただ一人、深く、虚しいため息を吐いた。
イゾルデの残した灰を見下ろすが、その胸に湧き上がるものは、勝利の昂ぶりでも、全能感でもない。ただ、期待していた娯楽を呆気なく奪われたことへの、深い喪失感と退屈だけ。
彼は一度だけ夜空に浮かぶ歪な月を見上げ、それから、ゆっくりと歩き出した。
数万の魔物が解き放たれ、崩壊へのカウントダウンが始まった原生林の奥。
世界最強の怪物は、その圧倒的な孤独と退屈を背負ったまま、闇の中へと静かに姿を消していった。




