49話 絶望
轟々と夜空を焦がす紅蓮の火柱。
すべてを灰にするはずの圧倒的な熱量の中、イゾルデは狂ったように笑い続けていた。しかし、その笑いは唐突に、引き攣ったように凍りつく。
「……な、に……?」
パチパチと爆ぜる炎の奥から、一人の影が静かに歩み出てきた。
イグニスだ。
衣服の一端すら焦げていない。それどころか、肌に煤一つついていない。まるでただの生温かい夜風を浴びていたとでも言うように、彼は無傷のまま、炎の中から悠然と姿を現したのだ。
イゾルデの紅い瞳が驚愕に広がる。だが、彼女は即座に殺意をむき出しに、叫んだ。
「舐めるんじゃないわよぉぉぉッ!!!」
攻撃の手は休めない。イゾルデは突き出した燃え盛る魔力の両腕を、猛烈な勢いで振り下ろした。
ド、ド、ド、ド、ドンッ!!!
大気を爆裂させながら、巨人の拳による超高速の連打パンチがイグニスへと叩き込まれる。一発一発が城塞をも粉砕する破壊の権化。
しかし――。
「は……?」
その拳が、イグニスの肉体に衝突する『直前』。
触れることすら叶わず、猛烈な質量を持っていたはずの黒炎の拳が、霧が晴れるように、呆気なくさらさらと空気中に霧散して消えた。
「――っ、炎の魔法使いだから、耐性があるってわけね…… それにしても異常よ……私の魔法が、消えるなんて……!」
イゾルデは忌々しげに悪態を吐き、バックステップで距離を取った。じわりと、冷たい汗が彼女の額を伝う。眼前で退屈そうに佇む男の実力が、完全に理解の範疇を超えていた。
「なら……その耐性ごと、塵も残さずぶち抜いてやるわ!!」
彼女の美しい肉体が、足元から頭頂まで爆発的な黒炎へと変貌していく。全身を炎化させ、最大魔力を、突き出した両手のひらへと極限まで集中させていく。
その中心で、陽炎のように歪む空間。光さえも吸い込むほどに超圧縮された黒炎の球体が、彼女の手の中で狂ったように脈動した。
「避ける気もないみたいだけど……その余裕が、お前の敗因よ、イグニス!!!」
彼女の叫びとともに撃ち放たれたのは、一国すら一瞬で消滅させかねない、超高密度の黒炎の奔流だった。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!!
直撃。
衝撃波が原生林を凄まじい勢いで駆け抜け、周囲の巨木をドミノのように次々と狂暴になぎ倒していく。爆心の地面は猛烈な熱量で融解し、巨大なクレーターが穿たれた。炭化した木々が自らの重みに耐えかね、サラサラと音を立てて崩れ落ち、あたり一面を黒い灰の世界へと変えていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
全身の炎化を解いたイゾルデが、肩で激しく息を切りながら、立ち上る濃煙を見つめていた。その唇には、確信に満ちた残虐な笑みが戻っている。
「……ざまぁないわね。人間風情が、この私を相手に調子に乗るからよ」
これだけの火力を至近距離で浴びて、形を保っていられる生物など、この現世には存在しない。それが世界の理だ。
だが。
夜風が吹き抜け、黙々とした灰色の煙が、ゆっくりと晴れていく。
クレーターの中心。
そこに、彼はいた。
クレーターの底で、衣服の一分の乱れもなく、髪一本すら焦がすことなく、イグニスはただそこに佇んでいた。その顔に浮かんでいるのは、怒りでも歓喜でもない。ただ、心底つまらなそうな、深い『退屈』の表情。
イグニスはゆっくりとイゾルデを見やり、静かに口を開いた。
「これで、終わりか?」
「っ――、あ、あ……」
イゾルデの口から、言葉にならない声が漏れた。
想定していない。こんなことは、ありえない。自分の全盛期を越える最大火力を、ただ直立して受け止めて、無傷?
魔法がどうとか、耐性がどうとか、そういう次元ではない。目の前にいるのは、自分が「人間」だと見下していた存在は、一体何なのだ。
ガタガタガタガタガタガタッ……!!!
イゾルデの身体が、本能的な恐怖で激しく震え出した。歯の根が合わず、カチカチと音が鳴る。
数年前、アルスたちに追い詰められた時の恐怖とは、決定的に質が違っていた。あの時はまだ「殺されるかもしれない」という戦いの範疇だった。
だが、今は違う。
自分が放った、世界を滅ぼし得る最強の魔法が、ただの『無』として扱われたのだ。
越えられない壁ではない。最初から、同じ地平にすら立っていない。
魔王軍四天王としてのプライドが、全能感が、そして彼女の精神そのものが、足元から音を立てて崩壊していく。
圧倒的な、絶望が、イゾルデを完全に支配した。




