48話 魔界の門
各国の中心に位置する、どこまでも深く、鬱蒼と生い茂る原生林。
そこは、頭上を埋め尽くす巨木の葉が月光を完全に遮断し、夜の闇が底なしのヘドロのように淀む、生者の立ち入らぬ領域だった。時折、風が梢を渡るたびに、周囲を取り囲む古木がざわざわと不吉に葉を揺らし、まるで森そのものが苦悶の声を上げているかのように響く。
そんな陽の光さえも届かない暗黒の密林を抜けた先に、ぽっかりと不自然に開けた、静寂の広場があった。不気味なほどの闇の中、二つの歪な影が佇んでいる。
「――ふむ、場所はこのあたりでいいだろう。始めてくれ」
上質だが控えめな衣服に身を包んだイグニスが、夜の帳が下りた森を見渡しながら、温度のない声で淡々と告げた。
彼の横に立つ白銀の髪の美女イゾルデは、月光を浴びた紅い瞳に昏い歓喜を滲ませ、不敵に微笑む。
「ふふ……人間どもに、本物の絶望というものを教えてあげるわ」
イゾルデがその白い両腕を夜天へと掲げた瞬間、空間全体がぐにゃりと歪んだ。
彼女の身体から溢れ出たのは、以前とは比較にならないほど濃密で、禍々しい無彩色の黒炎。その超高熱の炎は意志を持つ蛇のように触手をのたうち回らせ、触れた森の巨木を一瞬で炭化させて消滅させ、凄まじい熱量をもって、さらに広大な、死の平地を作り出していく。
ズゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!
次の瞬間、漆黒の大地が悲鳴を上げて派手に引き裂かれた。
地割れの底から、おぞましい異形の骨や剥き出しの肉の繊維が、まるで生き物のように蠢きながら急速に編み上げられていく。それは現世の物理法則を無視し、大地の土を喰らい、養分にしながら、圧倒的な質量を持って地表へと「生えて」きたのだ。
せり上がったのは、高さ十メートルは下らない巨大な「魔界の門」だった。
漆黒の漆喰で固められた異界の建造物。その表面には、見る者の精神を根底から狂わせるような不吉な紋様が、生き物の血管のようにドクドクと拍動を繰り返している。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!!
重々しい地鳴りが夜の静寂を完全に打ち砕き、その巨大な扉が、ゆっくりと内側から左右へと開かれた。
開いた扉の奥は、光を一切反射しない、すべてを拒絶する完全な虚無。次の瞬間、そこから濃度の高い魔力と、粘り気のある漆黒の霧が、津波のような圧倒的なプレッシャーとなって現世へと溢れ出してきた。
霧が触れた木々は一瞬で葉を落として変色し、まるで数百年もの時が圧縮されたかのように朽ち果てていく。溢れ出た魔界の因子が、周囲の因果を強引に書き換え、現世の夜を文字通りの『魔界』へと豹変させていくのだ。
そして――開かれた門の闇の奥から、底知れない無数の赤い眼光が蠢いた。
グルァァァァァッ!!!
ギギギギギギギッ!!!
鼓膜を裂く咆哮、怪鳥の羽音、巨人のような足音。
ついに本物の「魔物」たちが、開かれた門から濁流となって現世へと飛び出してきた。あるものは狂ったように夜空へと羽ばたき、あるものは地を駆け、それぞれ思い思いの方向へと四散していく。世界中に向けて、破滅の尖兵が容赦なく解き放たれた瞬間だった。
その光景を、世界の崩壊を最前列の特等席で見つめるように、イゾルデはうっとりと、満足げな笑みを浮かべて見つめていた。
「素晴らしいわ……。ついに、この時が来たのね。……でも、少し寂しいかしら」
イゾルデは、隣に立つ男をちらりと盗み見るように視線を向けた。
「他の四天王は来ないのか?」
イグニスの問いに、イゾルデは肩をすくめる。
「四天王ほどの高位魔族が、そうやすやすとこちらに出てくるわけがないでしょう。」
「……そうか。それは残念だな」
イグニスは、その端正な顔立ちに、隠しきれない退屈さと落胆の影を滲ませた。
だが、彼はすぐにフッといつもの底知れない無表情に戻ると、静かに言葉を続けた。
「もうじき異変に気がついた『邪魔者』たちが集まってくるはずだ」
イグニスは、周囲の空間がどれほど禍々しく変貌しようとも、眉一つ動かさない。その姿は、あまりにも異常だった。
世界を腐らせる迫り来る黒い霧さえも、彼の肌に触れる直前で、まるで意志を持つように避けていく。端正な顔立ちを崩さず、細い指先で自身の顎をなぞりながら、その瞳はどこまでも冷徹に、そして昏い光を宿してイゾルデを見つめている。
イグニスは静かに、だが挑発するように口角を吊り上げた。
「その前に――俺を喰ってみせろ、イゾルデ」
その言葉に、イゾルデの動きがピタリと止まった。
ゆっくりと振り返る彼女の顔は、先ほどまでの美女の皮を脱ぎ捨てていた。その顔には、これ以上ないほど残虐で、ニヤリとした歪な笑みが張り付いている。
「あら? バレてたの? ……それにしても、随分と潔いいのね、イグニス」
「勘違いするなよ。……この俺を『喰えるものなら喰ってみろ』、という意味だ」
フッ、とイグニスが鼻で笑う。
その絶対的な余裕の態度が、完全復活を遂げた天災の逆鱗を、これ以上ないほど逆撫でした。
「ハハハ! あんたといい、あの泥虫どもといい……最近の人間は本当にわきまえていないわね。自分の立場というものを!」
イゾルデの紅い瞳が、怒りで爆発的に輝く。
周囲の無彩色の黒炎が、彼女の絶叫に応じるように天高く跳ね上がった。
「今あなたの前にいるのは、魔王軍四天王が一人――イゾルデよ!!!」
ドンッ!!!
彼女の白い両腕が、瞬時に膨大な黒炎を纏い、物質の結合を焼き切る『燃え盛る魔力の巨大な腕』へと変貌した。肉眼を置き去りにする容赦のない速度で突き出されたその魔力の腕が、イグニスを正確に打ち抜く。
ゴガァァァァァンッ!!!!!
圧倒的な熱量と質量。イゾルデが放った最大出力の黒炎が爆発し、イグニスの身体を、衣服ごと、その存在ごと完全に包み込んで飲み込んでいく。夜空に向かって巨大な赤黒い火柱が立ち上がった。
「あはははは! 灰になりなさい、身の程知らずの人間がぁ!!」
夜の原生林を焼き尽くさんばかりの凶暴な炎の中で、四天王イゾルデの狂笑が、どこまでも不吉に響き渡っていた。




