45話 援軍
息が、続かない。
ウェンディは、肩で大きく息をしながら、目の前に展開した風の刃を維持していた。指先が、もう感覚を失いかけている。何度展開し、何度斬り、何度殺し――もはや、数える気力もなかった。
夜の樹海は、もう「防衛線」とは呼べる状態ではなかった。
あちこちに転がる、人間とも魔族ともつかない異形の死骸。その隙間を、まだ蠢く赤黒い肉塊が這い回る。守護兵たちの怒声は、すでに半分が悲鳴に変わっていた。
「数が、減らない……っ!」
倒すたびに増える敵。倒した野盗が、その場で「魔族」へと変質していく光景は、もう何十回と見た。だが、見慣れたところで、それが楽になるわけではない。
「く……っ!」
ウェンディは、足元に転がる守護兵の一人――まだ十代後半に見える、若い男――を、咄嗟に風の障壁で覆った。その障壁に、人工魔族の太い爪が、ガリッ、と食い込む。
「邪魔だ、退け……ッ!」
悍ましい咆哮。爪の先から、黒い炎が漏れ出している。障壁が、軋む音を立てる。
「退かないわよ、悪いけど……!」
ウェンディは歯を食いしばり、横合いから魔族の側頭部へ魔法を叩き込んだ。
ザシュッ――。
風の刃が、魔族の頭部の半分を削ぎ落とす。だが、それだけでは「死なない」。傷口から噴き出す黒煙が、すぐに肉を再生させようと蠢き始める。
(もう一発……!)
ウェンディは、残りの魔力を振り絞り、追撃の刃を構えようとした。
だが、その瞬間――身体が、言うことを聞かなかった。
魔力枯渇の、独特の脱力感。指先から、足の裏まで、すべての感覚が一瞬で遠のく。
(あ――)
展開しかけた風の刃が、力を失い、霧のように散った。
倒れた守護兵の青年が、目を見開いて、自分を覆う障壁が消えていくのを見ている。その視線の先――半壊した頭部を再生させた人工魔族が、残った片方の爪を、まっすぐにウェンディと青年へと振り下ろす。
(速い――!)
間に合わない。風を集める時間も、退避する時間も、もう、どこにもない。
「――ッ!」
ウェンディは、自分の身体を、咄嗟に青年の上へ滑り込ませた。理屈ではない。ただ、考える前に、身体が動いた。爪が、夜の闇を切り裂く。その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴッ――!!!
ウェンディの目の前、地面が、生き物のように隆起した。まるで、大地そのものが意志を持って盾になったかのように、巨大な岩塊が、ウェンディと青年を覆い隠す壁となって、垂直に立ち上がる。
ガキィィィンッ!!!
魔族の爪が、その岩の表面に激突し、火花を散らして弾かれた。
「……な, に……?」
ウェンディは、目の前にそびえ立つ岩の壁を、呆然と見上げた。
その壁の向こう側――防衛線全体を覆うほどの広範囲で、地面という地面が、次々と隆起していくのが分かった。鋭い岩の刃が、無数に、地中から噴き出していく。
悲鳴が上がる。だが、それは人間の悲鳴ではなかった。
ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ――!
地面から突き上げる岩の刃が、人工魔族たちの肉体を、足元から串刺しに、あるいは縦に両断していく。再生する暇もない。野盗たちの悲鳴も、岩の壁に阻まれて、半分も聞こえてこない。
「遅くなってすまん!」
地響きのような、聞き馴染んだ声。
ウェンディの目の前の岩壁が、まるでただの土塊だったかのように、音もなくゆっくりと崩れ落ちていく。その奥に立っていたのは――両腕に岩の装甲を纏った、巨躯の男だった。
「……ガウル!」
ウェンディの声が、思わず弾んだ。安堵と、驚きが、一気に押し寄せてくる。
「アジールにいたんじゃ……どうやって、こんな短時間で……!」
「詳しい話は後だ。伝令を受けて、すぐに出てきた。……正直、ぎりぎりだったな」
ガウルは、周囲を埋め尽くす岩の刃――その一つ一つに串刺しになった魔族の死骸を、無感情に見渡した。
「だが、まだ終わってない。お前は、まず下がって魔力を回復させろ。ここからは、俺が受け持つ」
ガウルは一人で駆けつけてなお、その圧倒的な存在感で戦場の空気を支配していた。アジールの大地で磨き上げられた彼の土魔法が、次々と押し寄せる残党の動きを強硬に圧殺していく。
ウェンディは、その背中を見て、ようやく、ずっと張っていた肩から力が抜けるのを感じた。
(助かった……ほんとに、助かった……)
その時だった。
ドンッ。
ドォォォォンッ。
ドンッ、ドォォォォォンッ……!!!
樹海の中心部――遥か向こう、地鳴りのような連続した爆発音が、夜空を震わせて伝わってきた。最後の一発は、空の色そのものを変えるほどの、青白い閃光を伴っていた。
「……っ、何よ、あれ……」
ウェンディは、その方角を見つめた。樹海の上空、雲が一瞬、内側から照らされたかのように白く染まる。その光が放つ「魔力の質」を、ウェンディの肌が、痛みのように感じ取っていた。
(あの感覚……さっきの、樹海の中心から来てた、あの嫌な脈動と――)
ガウルも、その方角を見て、表情を硬くしていた。
「アルスたちか……」
その声には、確信があった。
そして、その爆発音から数秒後――。
戦場を埋め尽くしていた人工魔族たちが、一斉に、動きを止めた。
「……は……?」
今まで、何度斬っても、何度倒しても止まらなかった異形たち。その全身を覆う黒い煙が、まるで「指示が途絶えた」かのように、急速に薄れていく。
「な、なんだ……!? あいつらが、止まった……!?”
守護兵たちが、信じられないといった声を上げる。
人工魔族たちは、一瞬、その場で硬直したかと思うと――くるりと、背を向けた。よろよろと、あるいは這うように、一斉に撤退を始めたのだ。
「待て――!」
追撃しようとした守護兵たちを、ガウルが大きな声で制止する。
「深追いはするな! 各自、負傷者の救護を最優先にしろ!」
――その頃。
戦場から少し離れた、防衛軍の後方陣地。
負傷者の手当てに追われていたサリアは、その光の方角を見た瞬間、はっきりと理解した。
今、樹海の中心から伝わってきた、その魔力の波動。それは、アルスのものだった。だが、これまで何度も感じてきた波動とは、何かが違う。激しすぎる。何かを、犠牲にしているような――
「アルス……!」
「サリアさん、どこへ!」
「ごめん、少しだけ……! あそこに、アルスが……!」
止める守護兵の声を振り切るように、サリアは樹海の中心へと、一人、駆け出していった。
一方、混乱する戦場の中、野盗たちの群れ――。
その一団を率いていた頭目格の男が、突然、足を止めた。彼はこめかみに手を当て念じるように呼びかけた。
「イザベル様! イザベル様!」
何の反応も返ってこない。
これまで、戦況のすべてを正確に読み取り、的確な指示を飛ばしてきた「ブレイン」――その存在が、唐突に、消えた。
「……噓だろ」
男の声が、震えていた。
「イザベル様の気配が、完全に消えてやがる……!」
樹海の中心から放たれた、あの三度の閃光。その意味を、男は理解したくなかった。だが、戦場全体の魔力のうねりが、確かに、何か巨大な「核」を、根こそぎ消し去ったことを物語っている。
「……撤退!! 全軍、撤退だぁぁぁぁぁッ!!!」
男の絶叫が、樹海の闇に響く。
指揮系統を失った野盗の大群は、もはや軍勢ではなく、ただの「逃げる人間の群れ」へと変わり――夜の闇の中へ、潮が引くように、消えていった。




