40話 イゾルデ
光が、世界の色を塗り替えた。
五つの棺から噴き出していた紫の魔力が、一瞬で純白に近い輝きへと変わる。網膜が焼かれるような閃光。
逃げろ、と。
俺の脳の奥――生存本能を司る部分が、確かにそう叫んでいた。だが、肉体はその命令に従わなかった。
いや、従えなかった。
光の中心から放たれる「圧」が、すでに俺の足を、地面に縫い付けていた。空気そのものが、重い水へと変わったような感覚。一歩でも動けば、その水の壁に押し潰される――そんな根拠のない、しかし圧倒的な確信が、全身の筋肉を硬直させていた。
隣に控えていたライゼンも、同じだった。
あいつの指先には、いつでも雷を放てるよう、青白い火花が灯っている。だが、その火花は、灯ったまま、一歩も先へ進まない。あいつの瞳が、これまで見たことのない種類の――純粋な「畏怖」の色で、固まっていた。
(止めるべきだ。今、この瞬間に……!)
頭では、分かっている。
だが、俺たちは、ただ、見ていることしかできなかった。
ピシッ、ピシッ、と、棺の表面に亀裂が走る音が連続する。
まるで、巨大な卵が内側から割れていくように。
「ふふ……」
イザベルの声が、輝きの中心から響いた。
その声は、もう、先ほどまでの少女の声とは、明確に違っていた。音の輪郭そのものが、二重に、三重に、奥行きを持って広がっていく。
「やっと……五百年……」
光の中心で、イザベルの輪郭が、ゆらりと揺れた。
彼女の栗色の髪が、根元から色を失っていく。漂白されたような白へ。瞳の色も、燐光のような青白さから、深い紅へと変わっていく。皮膚の下、血管のように走る紋様が、まるで墨を流したように、肌の表面へと浮き上がってきた。
(侵食――いや、これは『置き換わり』だ)
俺は、その現象を冷静に追っていた。
細胞単位での、急速な書き換え。彼女の肉体を構成していた組織が、内側に埋め込まれていたイゾルデの因子を「核」として、外側から猛烈な速度で再構築されていく。
イザベルという少女は、もう、そこにはいない。
光が収まった後――俺は、思わず、後方へ跳んでいた。
今までに感じたことのない圧力が、肌という肌から、内側へ内側へと押し込まれてくる。空気そのものが、重い液体に変わったような錯覚。立っているだけで、肺の奥が圧迫されるような感覚があった。
「……お、おい」
ようやく、ライゼンが声を出した。その声は、らしくないほど掠れている。
「アルス……あれ、やべーんじゃねーのか?」
あいつの視線は、光の中心に立つ「それ」に、釘付けになっていた。
「アステリアの古い伝承で、地下の四天王の話、聞いたことあるだろ。……魔物の中でも、封印されてたのは、特別『格が違う』ってやつだ。」
俺も、その伝承は知っている。
封印されている四天王。イゾルデは村の古文書では、「災厄の代名詞」として、忌み言葉のように扱われていた。
白い髪、紅い瞳。体格は、イザベルのものがそのまま残っている。だが、そこから滲み出す「質」が、まるで別物だった。
(……これが、本物の魔族、か)
「……ふぅん」
イゾルデは、自分の手のひらを見つめ、指先を一つ、二つと、確かめるように開閉させた。
その動作に応じて、彼女の周囲の空気が、わずかに歪む。それだけで、近くの木の枝が、軋むような音を立てて折れた。
「思っていたより、戻りが遅いわね。全盛期の半分くらいかしら」
イゾルデは、自分の身体を見下ろし、小さく息を吐いた。
地面に転がる、空になった五つの棺。その表面の幾何学模様は、すでに光を失い、ただの黒い石へと戻りつつあった。
彼女が、軽く右手を持ち上げる。
その瞬間、周囲の空気が、ぎゅっと圧縮された。地面の草が、瞬時に乾き、灰色に変色していく。
(魔力を、無理やり吸い上げている……! 範囲は――)
俺の肌が、ピリピリと痛みを訴えた。半径数十メートル、いや、もっと広い範囲。樹海全体の魔力が、緩やかに、しかし確実に、イゾルデの方へと流れ込んでいくのが分かる。
「これで……足りるかしらね」
彼女が、紅い瞳をこちらへ向けた。
俺は、全身の神経を、極限まで研ぎ澄ませる。
今、目の前にいるイゾルデは、自分自身の魔力を試している。まるで、長い眠りから覚めた獣が、自分の四肢の感覚を一つ一つ確かめているように。
「ちょうどいいから、少し遊んであげるわ」
イゾルデが、一歩、前へ出た。
その一歩だけで、地面が、円形に陥没する。
「私の本来の力は、人間の世界の理屈で言うなら――『天災』ね」
彼女の周囲に、黒炎が、ゆらゆらと立ち上り始める。人工魔族のものと同種だが、その密度と質量感は、完全に別物だった。
炎が、彼女の周囲で渦を巻き、輪郭を持った「腕」のような形へと変わっていく。
「これは、あなたたちの世界で言う『天才』の、最大出力くらいよ」
――同時刻、樹海北側、防衛線。
「来たぞ、敵だ! 数は――くそ、多すぎる!」
守護兵の悲鳴のような声が、夜の樹海に響き渡る。
松明の灯りが、木々の間を埋め尽くすように広がる、武装した野盗の群れを照らし出していた。武骨な剣、槍、そして中には、クライン王国製とおぼしき粗悪な鉄筒(銃)を構えた者まで混じっている。
「数が多いだけよ、魔法使いが負けるわけないわ」
最前線で、ウェンディが指揮を取っていた。
彼女の周囲には、不可視の風の刃が幾重にも展開され、見えない断罪の渦が、迫る野盗たちの足元を、土埃ごと薙ぎ払っていく。一陣の風が走るたびに、五人、十人と、悲鳴を上げる暇もなく地に伏していった。
「ふん、まだ百人は減らしてないわよ。守護兵は、後方の指示通りに防衛線を保って!」
守護兵たちは、その鮮烈な戦闘ぶりに気を取られながらも、必死に命令を実行する。アステリアの「天才」の力を直接見るのは、彼らにとっても初めての経験だった。
だが――
「……何!? これ……」
ウェンディの指先が、わずかに震えた。
倒れた野盗たちの肌が、目に見える速度で、岩のように赤黒く変色していく。指先から、肘から、肩へ。皮膚の下で、何かが「育っている」ような、不気味な蠢動。
「人間が……人工魔族になってる……!?」
ウェンディが、空中に展開した風の刃を構えながら、信じられないものを見るように目を見開いた。
「ちょっと、待ってよ。私が倒したのは、ただの人間よ。それが、倒れた後に、こんな……」
地に伏したはずの野盗の一人が、ガクン、と不自然に身体を起こす。その目は、白く濁り、もはや人間のものではなくなっていた。皮膚の下から、黒い煙が、薄く立ち上り始めている。
ウェンディの脳裏に、これまでの戦いの記憶が駆け巡る。
男爵領で出会った、最初の人工魔族。アジールを襲撃した、三体の魔族。あれらはすべて、「最初から」その姿で送り込まれてきた。だが、これは――
(戦場そのものが……『工場』になってる……?)
その時、樹海の中心――今しがた、地鳴りと、世界そのものを揺さぶるような閃光が走った方角から、紫がかった巨大な魔力の波動が、ゆっくりと、しかし確実に、脈動を伝えてきた。
その波動の「質」を感じ取った瞬間、ウェンディの背筋に、これまで感じたことのない冷たさが走った。
(この感覚……)
「……まさか、封印が……!?」
ウェンディは、咄嗟に、樹海の奥へと視線を向ける。
松明の灯りも、敵の喧騒も、一瞬、すべてが遠くなったような錯覚があった。
樹海の心臓部で、何かが――確かに、「目覚めた」。




