38話 棺
樹海の闇は、進むごとにその質を変えていった。
最初は、ただの「夜」だった。しかし数十メートルも進むうちに、足元の土の感触が変わる。乾いた土から、湿った腐葉土へ。その下に、さらにもう一層、何か別のものが横たわっているような――そんな、足の裏から伝わる奇妙な「重さ」があった。
空気が、濃い。
肺に入ってくる酸素の中に、何かもっと重い分子が混じっているような感覚。前世の知識を持つ俺の脳は、咄嗟にそれを「魔力濃度の異常な上昇」と認識した。アステリアの里全体が纏っている濃密な魔力――その「源流」に、今、近づいている。
俺はサリアに目で合図を送り、彼女を見張りの位置に帰らせる、足音を完全に殺して単独でイザベルの後を追っていた。
(妙だ)
彼女の足取りには、一切の迷いがない。
暗闇の中、木の根に足を取られることもなく、まるで何百回もこの道を歩いたかのような、滑らかな歩行。だが、彼女がここ――アステリアの地を訪れたのは、今夜が初めてのはずだ。
樹海の中心部に近づくほど、視界の端で、何かが「歪んで」見えるようになってきた。
ウェンディの不可視化とは違う。あれは光の屈折による物理現象だった。だが、これは違う。視覚情報そのものが、脳に届く前に何か別のノイズと混ざり合っている――そんな、感覚そのものへの干渉。
そして、唐突に、視界が開けた。
森の中心に、それは聳え立っていた。
巨木。
いや、その言葉では足りない。
他のどの木よりも遥かに太く、遥かに古く、そして――異様に青白い。
月光すら必要としないかのように、その樹皮そのものが、内側から青白い燐光を発している。枝葉は天を覆い尽くすほどに広がっているが、その葉の一枚一枚が、まるで生き物の薄い皮膚のように、脈動するように微かに震えていた。
これが、覚醒の果実の生る木――「深緑の森」の最深部、すべての始まり。
俺はその根元に、一つの人影を見た。
イザベルだ。
彼女は巨木の太い根の一本に、両の手のひらをそっと押し当てていた。栗色の髪が、燐光に照らされて、奇妙に色を変えている。
その手のひらから、何かが「流れ込んでいく」ように感じた。
彼女自身の魔力――感知に特化した、繊細で透明な質の魔力が、まるで水が砂に染み込むように、木の根の表面をゆっくりと這っていく。
(流し込んでいる、のか……? いや、違う。これは――)
俺の「眼」は、その現象を別の角度から捉えていた。
これは「侵入」ではない。「呼び水」だ。
巨木の根そのものに、最初から仕込まれていた何らかの術式。それを起動するための、極めて精密な「鍵」となる魔力波形。イザベルの魔力が、その鍵の形にぴたりと一致している。
ゴゴゴ、という低い地鳴りが、足の裏から伝わってきた。
巨木の周囲、放射状に広がる地面が、まるで生き物の皮膚がめくれるように、ゆっくりと盛り上がっていく。土が、根が、岩が、内側から押し上げられ、音もなく左右に裂けていく。
そして、そこから現れたのは――
五つの、棺だった。
石のような、滑らかで黒い質感。表面には、見たこともない文字――いや、文字というより、回路図のような幾何学模様が、隙間なく刻み込まれている。
その五つの棺の表面、刻まれた模様の隙間から、どす黒い、紫がかった「魔力の煙」が、ゆらゆらと噴き出していた。
その煙が肌に触れた瞬間、俺の全身の細胞が、悲鳴のような拒絶反応を起こした。
(これは……!)
男爵領で対峙した人工魔族。あの時感じた、外界の魔力――地下の四天王の残滓。あの時のものとは比較にならない、純度と密度。
脳の奥に、直接ノイズが叩き込まれる。
断片的な、無数の意志の残滓。一つではない。無数の、魔族が棺の中のものの復活に歓喜しざわめき立っているような、魔力のざわつきを感じる。
(仮死状態で封印されている、魔王軍の四天王の「イゾルデ」……。これが……)
俺は、自分の握った拳が、知らぬ間に汗で濡れていることに気づいた。
その時、彼女が振り返った。
「あら?」
巨木の根に手を当てたまま、イザベルがゆっくりとこちらを向く。
その声には、まったく動揺がなかった。むしろ、廊下で偶然知人に出会ったかのような、あまりにも自然な響きだった。
「お散歩?」
燐光に照らされたその顔は、いつもの、どこか世間に興味のなさそうな、退屈そうな表情のままだった。だが、その目の奥に、何か別のものが、薄い膜の下から透けて見えている。
「外の警備はいいの?」
俺は、答えなかった。
代わりに、一歩、また一歩と、彼女との距離を詰める。腰を落とし、いつでも肉体の出力を最大化できるよう、神経を研ぎ澄ませながら。
「……それはこっちのセリフだ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「イザベル。何をしている。そこから離れろ」
五つの棺から噴き出す紫の煙が、地面を這うように広がり、俺たちの足元にまで届きはじめている。それに触れた草が、見ている間に黒く変色し、音もなく崩れ落ちていく。
この場所そのものが、今、急速に「死」へと近づいている。
イザベルは、その光景を背に、ゆっくりと俺へと向き直った。
巨木の根に当てていた手のひらを、惜しむように、最後にもう一度だけ、優しく――まるで愛しいものに触れるかのように――滑らせる。
そして、彼女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
それは、俺がこれまで見てきたどんな表情とも違う、見たことのない種類の笑みだった。
純粋で、無垢で――そして、底の見えない深淵のように、禍々しい笑顔。
「ねえ、アルス」
その声は、先ほどまでと何一つ変わらない、あの少女の声のままだった。だからこそ、その奥に滲む異質さが、俺の背筋を凍らせる。
「『感知』って、便利な力よね」
彼女は、棺の一つに静かに腰を下ろしながら、続けた。
「遠くの魔力の流れも、誰かの足音も、何でも分かる。……でもね。本当に一番感知しやすいのって、何だと思う?」
俺は答えない。答える必要などなかった。
イザベルの体重を受けた棺の表面、刻まれた幾何学模様が、彼女の体温に応えるように、淡く脈動しながら光を強めていく。
「同じ『血』よ」
その一言が、樹海の静寂に、はっきりと、残酷な輪郭を伴って響いた




