37話 帰郷
樹海特有の、粘りつくような夜の匂いが鼻腔の奥に張り付く。
イザベルの「眼」は、まるで世界そのものを盤面として見下ろす神の視点のようだった。彼女が遠方の魔力反応から導き出した答え――敵軍は街道を進むと見せかけ、樹海北側から迂回し、隠れ里の結界を背後から食い破る。その奇襲ルートの予測には、誤差の入る余地が一片も感じられなかった。
その精度のおかげで、俺たちはイグニスの軍勢よりも丸一日早く、アステリアの里へと飛び込むことができた。
だが、迎えてくれたのは故郷の温もりではなかった。
樹海の境界を抜けた瞬間、肌に刺さったのは、懐かしいはずの空気に混じった、刃のような敵意だった。
重厚な大樹の内部、儀式の間にも使われる村長の謁見の場。
苔の匂いと、燻らせた香木の匂いが混ざり合うその空間で、村長は杖の先を石の床に突き立てた。コン、という乾いた音が、やけに大きく響く。
「……何をしに戻ってきた、大罪人どもが」
杖を握る老人の手は、わずかに震えていた。怒りか、それとも――恐怖か。蛇のように細められた眼が、ライゼンとウェンディの姿を順に這うように見つめる。
謁見の間を囲む守護兵たちの間に、ピリ、と空気が張る音が聞こえた気がした。彼らの指先には、すでに小さな炎や風の渦が、いつでも解放できる状態で渦巻いている。
「おいおい、ジジイ。ずいぶんな歓迎じゃねえか」
ライゼンが面倒くさそうに頭を掻く。その態度には苛立ちが滲んでいたが、奥底に潜む緊張までは隠しきれていない。
「俺たちはな、村がヤバいからわざわざ警告しに戻ってきてやったんだよ。お前らの大好きな掟がどうだか知らねえが、今すぐ戦える奴を集めろ。もうすぐ外のゴロツキどもがここに押し寄せてくるぞ」
「黙れ!」
老齢の幹部の一人が、机を激しく叩いた。木の机が軋み、灯火がゆらりと揺れる。
「掟を破り、外の穢れた空気を吸って戻ってきた腑抜けの言葉など、耳を傾ける価値もない! 外に我らの魔法技術や魔力を出してはならない――それが破られた時、里に未曾有の災いが起こると、古くから伝えられている! お前たちはその大罪を犯したのだぞ! 村長! この場でこやつらを捕らえ、即刻、死罪に処すべきです! アステリアの血を汚した罰を……!」
幹部の唾が飛ぶほどの怒声が、謁見の間の空気を一気に張り詰めさせる。
「死罪、ねえ……」
ウェンディが冷たく笑い、腰の短剣に指先を這わせた。彼女の周囲の大気が、ほんのわずかに密度を変える。あと一言。あと一動作で、この場は血の海に変わる。
俺は無言で重心を低く落とした。動くなら、誰よりも早く。
その、一触即発の静寂を破ったのは――
「村長、今は身内で血を流している場合じゃないです。協力しましょう」
守護兵たちの隙間を割って、一人の若い魔法使いが歩み出てきた。
「カイル先輩……!」
サリアが、小さく声を上げる。
かつて模擬戦で俺の拳一つに沈んだ、一つ上の天才。あの時の余裕に満ちた笑みは消え、今その顔には、守るべきものを背負う者だけが持つ、張り詰めた覚悟が刻まれていた。
カイルは村長に向き直り、迷いのない声で告げる。
「村長、彼らの言うことは事実です。私の斥候班も、先ほど樹海の北側で不審な魔力の集団を感知しました。今の守護隊だけでこの襲撃を防ぐのは不可能です。ライゼンとウェンディの処罰は、この危機を乗り越えた後でも遅くはありません」
その言葉に、謁見の間の空気が、わずかに――本当にわずかに、その色を変えた。
俺は知っている。アステリアの現状が、どれほど危うい綱の上にあるかを。
かつて里の防衛を担っていた熟練の精鋭たちは、ライゼンたちを連れ戻すための追撃隊として村を出たまま、誰一人として帰ってこなかった。死体も、生存報告も、何もない。残されたのは「全員が消息不明」という、重く湿った沈黙だけだ。
大幅に削られた戦力。その隙間を、今この若き天才が必死に塞いでいる。
「うむ……」
村長は喉の奥から、絞り出すような呻きを漏らした。
感情で言えば、目の前の二人を今すぐ縄で繋ぎ、儀式の広場で晒し首にしてやりたい。それが村長の本心だろう。だが、カイルの言う通りだ。この脆い守護隊だけで外の軍勢を迎え撃てば、里は一晩で踏み潰される。
その後ろで、俺たちと共にここまで駆けてきたイザベルが、ふっと小さく息を漏らした。
彼女の横顔には、村の内情への興味も、自分に向けられかねない刃への怯えも、何一つ浮かんでいなかった。ただ、退屈な舞台劇を眺めるような、奇妙に澄んだ無関心だけがあった。
「もちろん、俺たちも警備に加わる。悪い話ではないはずだ」
俺は一歩前へ出た。
俺の声に、村長たちの視線が一瞬こちらへ向く。だが、すぐにその目は「無能」を見る、いつもの色に戻った。回路を持たない俺の言葉など、彼らにとっては最初から検討の対象にも入らない。
「敵は物量で攻めてくる。防衛線を複数に分け、網の目のように配置しなければ簡単に突破されるぞ。それに、敵にはイグニスがいる。あいつを止められるのは、俺たちだけだ」
「アルスの言う通りです」
カイルが、俺の言葉を遮るように、しかし守るように被せた。
「彼らの力を借りなければ、アステリアは明日を迎えられない」
謁見の間に、長い、長い沈黙が落ちた。
燻る香木の煙だけが、緩やかに天井へと立ち上っていく。
やがて村長は、深い皺の刻まれた顔をさらに歪め、ようやくその一言を吐き出した。
「……よかろう」
苦渋という言葉では生易しい、何かを腐らせるような声だった。
こうして俺たちは、極限の緊張感の中、アステリアの急造防衛軍へと組み込まれることとなった。
その夜。
隠れ里を包む樹海は、不気味なほどに静まり返っていた。
昼間の喧騒も、子供たちの声も、何もない。ただ、無数の木々が呼吸するような、低い葉擦れの音だけが、闇の中を這うように伝わってくる。風はない。だが、その「無風」こそが、何かを呑み込む直前の静寂のように、俺の肌をざわつかせた。
敵の奇襲に備え、防衛軍は交代制で夜通しの見張りに就くことになった。
大樹の幹の合間に組まれた、見張り用の木造デッキ。湿った木の匂いと、燃料の少ない焚き火から漂う煙の匂いが、狭い空間に溜まっている。
周囲の警備をライゼンとウェンディに任せ、短い休憩に入った俺とサリアは、二人きりでその微かな焚き火の前に座っていた。
パチ、パチ、と火の粉が爆ぜる。その淡い光が、サリアの横顔を、橙色に淡く照らし出していた。
彼女は抱え込んだ膝に顎を乗せ、暗い森の奥をじっと見つめている。いつもなら明るい光を映すその瞳に、今は、見たこともないほどの不安の影が揺らめいていた。
「……ねえ、アルス」
夜の静寂に溶けるような、小さな声だった。
「これから、私たち……どうなっちゃうのかな」
その言葉には、明日の戦いへの恐怖だけでは説明できない、もっと深い震えが混じっていた。
命がけで戻ってきた故郷からは、大罪人として刃を向けられた。長老たちの目に映る自分たちは、もう「同胞」ではなく「異物」だ。信じていた世界の輪郭が、足元からガラガラと崩れていく――そんな底知れない孤独が、彼女の声に滲んでいた。
「イグニスを止められたとしても、私たちはもう、この村にはいられない。外の世界だって、どうなるか分からない……。なんだか、自分の知っている世界が、全部遠くへ行っちゃったみたいで、すごく怖いの」
サリアは自分の両腕で、自分自身を抱きしめるように身体を縮めた。
外の世界に出てから、彼女はずっと「アステリアの天才」として、毅然と振る舞おうとしてきた。誰よりも治癒の光を絶やさず、誰よりも冷静に状況を分析し――だが今、その鎧の隙間から、少女の、生々しい脆さが滲み出していた。
俺は、そんな彼女の横顔を、ただ静かに見つめていた。
ここで何を言えばいいのか。前世の記憶を探っても、こういう時にかけるべき気の利いた言葉は、結局一つも出てこなかった。佐藤健一だった頃の俺も、結局、こういう時にはいつも黙り込み、後悔だけを溜め込んでいた男だった。
だから、俺は、いつものように、ただ一つの「事実」だけを口にした。
「世界がどう転ぼうが関係ない」
焚き火の灯りが、俺の拳をオレンジ色に染める。
「俺は前に進む。この手で道を切り開く」
サリアが、濡れた瞳を上げて俺を見た。
「これからどんな困難が有ろうと、どんな敵が現れようと、すべて蹴散らす。だから安心しろ」
俺は、その瞳をまっすぐに見返した。
「サリアは俺が守ってやる」
傲慢なまでの、根拠のない絶対の自信。
だが、その揺るぎなさが、今この瞬間のサリアには、どんな優しい綺麗事よりも、深く、確かに染み渡っていくのが分かった。
「……ふふ」
サリアは、指先で目元の涙を拭うと、小さく、本当に小さく微笑んだ。
「あの時とは逆になっちゃったわね」
その瞳には、再び、強い光が戻っていた。
「ああ」
俺はゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ交代の時間だ。行くぞ」
サリアと共に、再び見張りの位置へと戻ろうとした、その時だった。
俺は――夜闇の奥に、一つの異物を捉えた。
里の魔法使いですら、夜間は決して足を踏み入れない場所。濃密で、禍々しい魔力が沼のように沈殿する深緑の森。その入り口へと向かって、一切の躊躇もなく、平然と歩いていく小さな影があった。
長い栗色の髪が、風もない夜の中で、わずかに揺れている。
間違いない。イザベルだ。
彼女の足取りには、迷いも、恐れも、何もない。まるで、誰かに「呼ばれている」かのような、静かで、まっすぐな足取り。
その背中が、闇の濃さに紛れて、輪郭から溶けていく。
敵の軍勢が迫るこの夜に、彼女は一体、どこへ向かっているのか。
俺の胸の奥で、これまでとは種類の違う、冷たい不穏の種が、静かに根を張り始めていた。




