36話 アジト
アルスたちは、ウェンディの風の魔術によって完全な不可視の状態でマルセル大商会の地下倉庫へとたどり着いた。地下倉庫へと続く鉄格子の扉は、薄暗い裏路地の奥にひっそりと佇んでいる。周囲には人通りもなく、湿った錆の匂いを孕んだ大気が、まるで地下の暗部を隠すように淀んでいた。
「私がやるわ」
ウェンディは美しく細い指先を鍵穴にかざし、微かな風のラペルを紡ぐ。極小の空気の刃が鍵穴の内部で複雑なピンを正確に押し上げる、カチリ、という小気味よい金属音が響き、重い鉄格子が音もなく解放された。ゆっくりと開いた扉の隙間から、地下特有の冷気と、饐えた臭気が這い出てくる。
一歩中へ足を踏み出すと、そこは一見、ウェンディの情報通りごく普通の、ありふれた大商会の保管庫だった。天井高くにまで整然と積み上げられた木箱には、高級なワイン樽や異国から取り寄せたと思われる絹織物のロール、乾燥させた香辛料の袋が並んでいる。魔法が浸透していないこの外の世界において、これほど巨大な物資の集積場は、それだけでマルセル大商会の絶大な権力を物語っていた。
だが、迷路のように入り組んだ木箱の並びを抜け、その最奥にある頑丈な石造りの隔壁へと行き当たった時、大気の質は明確にその色を変えた。
「……ねえ、何これ。おかしいわよ」
前衛で風の膜を張りながら進んでいたウェンディが、不快そうに鼻を微かに動かした。高級な香辛料の人工的な香りに混ざって、隠しきれない異臭が漂い始めている。それは、硝石の焦げた匂いと、ひどく生臭い「鉄」の匂い――すなわち、大量の血液の臭気だった。
一般の倉庫区画を区切る、分厚い鉄鋲が打ち付けられた重罪犯用の監獄のような扉。ウェンディが再び風の魔力でその強固な閂を外すと、その先は一般の従業員が立ち入ることのない、冷徹な石造りの「実験棟」へと切り替わっていた。
その境界線の扉を越えた瞬間、一行の視界に飛び込んできたのは、凄惨きわまる光景だった。
「っ……これは……」
サリアが短く息を呑み、反射的に口元を片手で押さえた。
石壁や床の至る所に、どす黒い血痕が激しく飛び散っている。それだけではない。人間のものではない、青黒く変色した肉片や、不自然に肥大化した骨の一部が、まるで内側から爆破されたかのようにあちこちに散乱していた。アジールでアルスたちが死闘を繰領げた、あの「人工魔族」の残骸だった。
さらに異様だったのは、通路の両脇に設置された頑丈な鉄格子の檻だ。
中には、どこからか連れてこられたと思われる、みすぼらしい衣服を纏った人間たちが何十人も閉じ込められていた。彼らは、恐怖によって完全に心を折られ、虚ろな目で宙を見つめながら、ただガタガタと身を震わせて檻の奥へと縮こまっていた。
「それにしても、どうなってやがる……」
ライゼンが床の肉片を踏み越え、不機嫌そうに眉をひそめる。
「兵隊の数が明らかに少なすぎる。ウェンディの情報じゃ、ここには野盗の群れがウジャウジャ囲われていたはずだろ。見張りの一匹もいやしねえ」
「ああ、妙だな」
アルスは立ち止まり、床に転がる肉片に視線を落とした。肉塊から立ち上る微かな熱を、その鋭い「眼」で捉える。
「血液がまだ凝固していない。肉片の熱量も、周囲の室温より明確に高い。……つい先ほど――数分前に内側から、この拠点を維持していた人工魔族が、『処分』されている」
「数分前だと!? じゃあ、イグニスの野郎はすぐそこに……!」
ライゼンが拳に紫電を燻らせようとするのを、アルスは冷徹に制した。
「いや、ここにイグニスはいない。奴の魔法じゃない、熱量が低すぎる」
アルスはアジールのときから感じていた違和感が、確信めいた強さへ変わっていくのを感じていた。
(……やはりおかしい。イグニスは『炎』の魔法使いのはずだ。なぜ、これほど多様な属性の魔法が使えるんだ? それに、なぜ移動の直前に、自らの手駒であるはずの魔族をわざわざ処分する必要があった?)
謎のピースは未だ噛み合わない。だが、思考を巡らせながらも、アルスは回廊の最奥にあるひときわ重厚な鉄の扉へと歩を進めた。その扉はすでに、内側から凄まじい衝撃によって強引に破壊され、不気味にひしゃげて傾いていた。
中に入ると、そこは禍々しい研究室だった。
怪しげな薬液が満たされた硝子瓶が粉々に砕け散り、床には、これまで見たこともないほど巨大な、悍ましい形相をした高等人工魔族と思わしき死体が、文字通りただの肉塊となって転がっている。
解体された実験室の中央。太い石柱に、頑丈な手錠で両手をつながれた一人の女性が、ぐったりと頭を垂れていた。
「おい、生きているか」
アルスが不可視化を解き、声をかけながら近づく。
女性は弾かれたように顔を上げた。ぼさぼさの栗色の髪の隙間から、ひどく怯えた、だが同時に奇妙なほどに澄んだ瞳がアルスたちを捉える。
「あ……あなた、たちは……」
「怪しい者じゃないわ。怪盗ウェンディと愉快な仲間達よ、安心して」
ウェンディが素早く駆け寄り、手首の錠前へと指先を向ける。鋭利な風の刃がピンポイントで手錠の結合部を切り裂いた。ジャリ、と重い鉄が床に落ちる。
「あ、ありがとう……っ」
拘束を解かれた女性は、張り詰めていた糸が切れたように、その場に崩れ落ちそうになった。サリアがすぐさま駆け寄り、その華奢な身体をそっと支えて床に座らせる。サリアは優しく彼女の手を握り、微かな治癒の魔力を通わせながら、落ち着かせるように声をかけた。
「大丈夫よ、もう安全だから。ゆっくりでいいわ、何があったのか教えて」
女性は激しく上下する呼吸を整えようと、何度も深く息を吸い込み、必死に声を絞り出した。
「私は、イザベル……。突然、魔法が覚醒してしまって……。『上質な材料』だって、野盗たちに無理やり連れてこられたの……」
「魔法の覚醒ですって!?」
サリアが驚きに目をみはる。魔力の薄い外の世界において、魔法回路が目覚めるのは本来ありえないことだった。
イザベルは、自身の頭を両手で強く押さえながら、狂乱気味に言葉をまくしたてた。
「私の魔法は、遠くの気配や魔力を正確に捉える『感知』の力なの……。だから、壁の向こうから聞こえたのよ……! あの化け物たちを従える、凍りつくような声の男が、用済みになったこの場所をすべて処分しろって命令を出すのが……!」
アルスはイザベルの前に片膝をつき、その怯える視線を正面から固定させた。
「その声の主は、イグニスだな。奴は今、どこにいる?」
イザベルは恐怖に身体を激しく震わせながら、縋り付くようにアルスの胸元を掴んだ。
「アステリア……! 奴らは『アステリア』って言ってたわ! 地下に眠る、本物の魔族……『イゾルデ』の封印を解くって! そのために、これまでに集めた大量の食料と武器、そして野盗をすべて率いて、今、アステリアに向かっているわ!」
その言葉が室内に落ちた瞬間、ライゼンとサリアの顔色が完全に変わった。
「なんだと……!?」
ライゼンが激昂を孕んだ声を上げる。
「あいつ、人工魔族なんかじゃ満足できなくなって、本物の魔族、それも四天王を呼び覚ますつもりかよ!」
「そんなことをしたら、村だけじゃなくて人間の世界そのものが滅びてしまうわ……!」
サリアの言葉が戦慄に凍りつく。
だが、そこでライゼンがふと疑問を口にした。
「……なぁアルス。一つ引っかかる。イグニスのあの狂った強さなら、わざわざ野盗の軍勢を引き連れなくたって、一人で村に乗り込んで力ずくで事を成せるはずだろ。なんでそんな大掛かりな兵隊が必要なんだよ?」
アルスは表情を変えず、冷徹に答えた。
「アステリアの防衛戦力を『釘付け』にするためだ」
「釘付け?」
「アステリアの村には、長老たちや結界、村を守る戦士たちがいる。イグニス一人で全滅させることは可能だろうが、それには時間がかかるし、封印を解くのに邪魔が入るリスクがある。だから奴は、野盗の軍勢を使ってアステリアの村や周囲の防衛線を正面から急襲させ、戦力をそちらに釘付けにするつもりだ。そして、イグニス自身は無傷のまま、最短で地下最深部の封印へと直行し、目的を果たす。奴にとって野盗の命も物資も、ただの効率的な時間稼ぎの駒に過ぎない」
「チッ、こうしちゃいられねえ! すぐに村へ引き返すぞ!」
ライゼンが踵を返し、通路へ飛び出そうとする。
アステリアは彼らのホームグラウンドだ。隠れ里へ続く樹海の道なら、自分たちの足で迷うことなく突き抜けられる。
だが、アルスがその肩を力強く掴んで引き止めた。
「待て、ライゼン。アステリアへ続くルートは一つではない。奴らが本隊を街道に進ませているのか、あるいは樹海の裏道を切り開いて奇襲をかけるつもりなのか、現時点では判断がつかない。ルートを見誤って先回りに失敗すれば、俺たちが村に着いた時にはすべてが終わっているぞ」
「それなら、私が……!」
イザベルが、サリアとウェンディの肩を借りて必死に立ち上がった。その澄んだ瞳には、監禁されていた恐怖を越える、強い意思の光が宿っていた。
「私の感知魔法なら、遠くにいる奴らの巨大な魔力の塊と、それを囲む軍勢の足音を正確に捉えられるわ……! 奴らがどのルートを使ってアステリアへ向かっているか、私が正確にナビゲートする! だから、お願い……あいつらを止めて!」
アルスはイザベルの眼をじっと見つめ、その覚悟が本物であると判断した。
「分かった。お前の眼を信じる。――ウェンディ、檻の人間たちの解放と保護は、表の仕立て屋の仲間にすべて任せる。それと同時に、アジールで待機しているガウルへ即座に伝令を飛ばせ」
「了解よ! すぐに仕立て屋の最速の連絡網を走らせるわ!」
ウェンディが力強く頷き、部屋の入り口に控えていた仲間の潜入員へ、ガウルへの至急の伝令を手配するべく素早く指示を飛ばした。
「行くぞ」
アルスの短い号令が響く。
イグニスの冷酷なロジックを、そして世界の崩壊を止めるため――アルスたちはイザベルを伴い、深い朝霧を切り裂いて、決戦の地となる故郷アステリアへ向かって猛然と駆け出した。




