35話 情報交換
薄暗い朝霧が、レンガ造りの古い街並みを白く染め上げている。
アルスたちが身を寄せていたのは、中央通りから一歩奥まった路地にひっそりと佇む、仕立て屋の奥座敷だった。壁越しにミシンのリズミカルな駆動音が微かに響いてくる。表向きは上流階級の衣服を仕立てる上品な店だが、その実態は、ウェンディを裏から支える手練れたちの秘密拠点だ。淹れたての紅茶から立ち上る湯気と、張り詰めた静寂が部屋を満たしていた。
仕立てのいい旅装へと着替えたウェンディは、マホガニーの机に両肘をついていた。細い指先を複雑に組み、その上に顎を乗せて、正面に座るアルスをじっと睨みつける。紫の瞳には、まだこの男の底知れなさを測りかねている警戒心と、プライドが混ざり合っていた。
「――で? これからどうするつもりだったの?」
鈴を転がすような声に、ナイフの鋭さが混じっていた。彼女は椅子の背にもたれかかり、自身の手首を軽くさする。昨夜、アルスに完璧に極められた関節の感触が、まだ肌に残っているのだ。
「イグニスを止めるなんて、大層な大言壮語を吐いたのはいいけれど。まさかノープランじゃないでしょうね? 魔法回路すら持たないあなたが、どうやってイグニスの居場所を突き止めるつもりかしら」
挑発的な言葉が室内に響く。だが、アルスには一片の動揺も浮かばない。手元に置かれた冷めかけた茶に視線を落とした後、静かに首を振った。
「場所は知らん。だが、手がかりならある」
何か言いかけたウェンディの言葉を、冷徹な声が遮る。
「『イゾルデ』という名だ。裏社会を這い回ってきたお前なら、聞き覚えがあるんじゃないのか」
その瞬間、ウェンディの身体が目に見えて硬直した。組んでいた指がわずかに震え、綺麗に整えられた眉がぴくりと跳ね上がる。
「……なんであんたが、その名前を知っているの?」
声音から、高飛車な響きが完全に消え失せていた。純粋な驚愕と、自身の領域に踏み込まれた者の警戒心が、代わりに宿っている。
その変化を見て、背後に控えていたライゼンとサリアが怪訝そうに顔を見合わせた。
「人工魔族が死に際に吐いた名だ」
「人工魔族が……」
ウェンディは信じられないといった様子で呟き、小さくため息をついた。観念したように腰のポーチから手帳を取り出し、細い指先でページを素早くめくり、ある箇所で止める。
「なるほどね。完全に繋がったわ」
彼女は手帳のページを人差し指でトントンと叩きながら、忌々しそうに唇を噛んだ。
「イゾルデっていうのはね、ここ最近、各国の汚い貴族や裏社会の大商人の間で闇取引を行っている、正体不明の商人の名前よ。取引内容がずっと引っかかっていたんだけど……動かしている物資の量が、個人の商人の規模を遥かに超えているのよ。大量の食料と、実戦用の武器。特注の上等な代物じゃなくて、粗悪だけど構造が単純で扱いやすい装備ばかり。それを信じられないような規模で、市場から根こそぎ買い漁っている」
「ちょっと待てよ」
それまで黙って聞いていたライゼンが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あの戦闘馬鹿のイグニスが、商人の真似事だと? あいつ、そんな地道なことやってたのか」
「しかも、かなり長期間にわたってね」
ウェンディが手帳を閉じ、腕を組んだ。
「私も一年近く追っていたけれど、尻尾どころか、顔すら見えなかった。……それがまさか、あの男だったなんて」
ライゼンが舌打ちをした。
「陰でコソコソと人間と武器をかき集めてやがったのか。気持ち悪いな」
「戦争を起こすにしては、武器の選択が非効率すぎる。正規軍と戦うための装備ではない」
アルスは手帳のリストを確認しながら、淡々と言葉を続けた。
「装備の質と、大量の食料。この二つの条件から導き出される実態は一つだ。各地の辺境を襲撃し、人間を効率よくさらうための『私設野盗集団』の維持だ。イグニスは、人工魔族の実験体となる人間を安定的に確保するために、裏で大規模な野盗たちを囲い込んでいる」
「人間を……さらう」
ウェンディの声が、わずかに沈んだ。
「要するに」
ライゼンが、苦々しい顔で吐き捨てた。
「俺たちがアジールで相手にしてきた人工魔族は、そうやって集められた人間で作られてたってことか」
「……そういうことね」
ウェンディが、静かに、しかし確かな怒りの色を瞳に滲ませて呟いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ミシンの音だけが、壁越しに聞こえてくる。
ウェンディが先に、その沈黙を破った。
「……物資のうち大量の食料と武器は、ここから北に数キロの物流街にある『マルセル大商会の地下倉庫』に流れているわ。表向きは貴族向けの高級交易品の保管庫として厳重に管理されているけれど、あそこなら、これだけの物資を日々動かしていても、国や教会に怪しまれることなくカモフラージュできる。間違いなく、その地下に、イグニスの拠点があるわ」
「場所が分かってりゃ話は早いじゃねえか」
「ああ。先手を取る。だが、無鉄砲に突っ込むわけではない」
アルスは静かに立ち上がり、三人を一人ずつ見据えた。
「今回の肝は、ウェンディ、お前だ」
「……私?」
「倉庫内は狭く、遮蔽物が多い閉鎖空間だ。ライゼン、お前の雷撃は強力だが、狭い空間で放てば建屋ごと崩落するリスクがある」
ライゼンが、悔しそうに黙った。否定できないのだろう。
「今回は、ウェンディ。お前の風による探知と、光の屈折を利用した透明化を主軸にする。戦闘は最低限に抑える。イグニス本人へ伝わる前に、音もなく一瞬で制圧する。お前の隠密性と探知能力があれば、それが可能だ」
ウェンディはゆっくりと席を立ち、髪を軽くかき上げた。いつもの不敵な笑みが、その唇に蘇る。
「……まあ、私の腕前を見せるのにちょうどいい舞台じゃない。特等席でじっくり拝ませてあげるわ」
「行くぞ」
アルスの短い号令が室内に響く。
紅茶の湯気が静かに消えるのと同時に、四人の影は奥口から、まだ深い霧が立ち込める朝の街へと、音もなく踏み出した。




