32話 風の足跡
館の外へと続く長い廊下は、すでにパニックに陥った兵士たちでごった返していた。窓から差し込む月光が、混乱する男たちの影を不気味に揺らしている。
「あっちだ! いや、庭園の方へ抜けたぞ!」
「馬鹿野郎、何も見えねえのにどこを追うんだ!」
怒号が飛び交うなか、アルス、ライゼン、サリアの三人は、喧騒を避けるようにして静かに廊下を突き進んでいた。
「おい、アルス。本当にこっちで合ってんだろうな?」
ライゼンが、未だに火花の燻る拳を握り締めながら低く唸る。
「廊下には風の残響が多すぎて、私にはあの子の正確な位置までは追いきれないわよ。このままじゃ完全に見失うわ」
サリアも周囲に視線を走らせながら、焦りの色を隠さない。
「問題ない、完全に捉えている。二人は俺の斜め後ろを、足音を殺してついてきてくれ」
アルスは速度を緩めることなく、淀みのない足取りで曲がり角を次々と抜けていく。その視線は、誰もいないはずの床や空気の「ある一点」を正確に射抜いていた。
(姿を消し、音を消す。今までなら、これで完全に巻けていただろうな)
ウェンディがどれほど完璧に光を曲げて透明化しようとも、彼女の身体には確実に「質量」があり、この空間に存在している。質量があるということは、移動するたびに周囲の「空気」を押し退け、床を踏み締めれば「摩擦」と「熱」が生じるということだ。
(風の障壁で空気の摩擦音すら相殺しているのは見事だが……その『音を消すために発生させた局所的な高周波』が、周囲の空気の温度をわずかに上昇させている)
アルスが研ぎ澄ました魔力感覚で見ているのは、ウェンディの姿ではない。
彼女が激しく動いたことで生じる、大気の「熱の乱れ」――すなわち、わずかな熱対流の尾だった。
「――そこだ、左の階段だ」
アルスが短く指示を出した直後、誰もいないはずの左側の螺旋階段の踊り場で、配置されていた私兵の槍の穂先が、陽炎に揺られるように不自然にぐにゃりと歪んだ。風の衣に触れた大気が、一瞬だけ光を異常に屈折させたのだ。完全な隠密だが、大気の揺らぎまでは消せない。
「マジかよ、本当にそこを通ったのか……!」
ライゼンが驚愕に目を剥く。
「大気のわずかな温度変化をなぞっているだけだ。あのノイズの走り方……ウェンディは今、館の最上階、バルド伯爵の私室があるテラスへ向かっている」
「嘘でしょ!? 人間の感覚の域を超えているわ……」
サリアはアルスの超人的な追跡を察し、背筋に冷たいものを感じていた。
「手品は種が割れればただの作業だ。テラスから外に出られたら、さすがに熱の追跡も風で拡散されて途切れる。外に出す前に、退路を断つぞ!」
螺旋階段を駆け上がり、豪華絢爛な装飾が施された最上階の廊下へ飛び出す。
その先にある、夜空へと開かれた巨大なテラスの扉が、何の前触れもなく、ひとりでに勢いよく外側へと開け放たれた。
ヒュッ、と冷たい夜風が室内に吹き込んでくる。
「逃がすかよぉッ!!」
ライゼンが、アルスの合図を待たずに爆発的な速度で踏み込んだ。テラスの直前、空気の熱が最も激しく渦巻いている「虚空」に向けて、紫の電光を纏った拳を容赦なく叩きつける。
ズガァァァン!!
激しい雷鳴とともに、テラスの床石が粉々に砕け散った。
強烈な電撃の余波が、誰もいないはずの空間を白熱させる。
「あら、危ないじゃない。せっかくのドレスが焦げちゃうところだったわ」
夜空を背にしたテラスの縁。
月光が不自然に歪んだかと思うと、まるで薄いシルクのベールを剥ぎ取るようにして、一人の少女の姿が鮮烈に浮かび上がった。
燦然と輝く満月の光を浴びて、夜の闇に浮かび上がったその姿は、息を呑むほどに美しく、そして妖艶だった。
透き通るような白磁の肌に、夜風を孕んで黄金の波のように躍る美しい金髪。身に纏った漆黒の怪盗は月光を弾いて怪しく光り、その細い手には、バルド伯爵から奪い取ったばかりの『天風の碧玉』が、深緑の神秘的な輝きを放ちながらしっかりと握りしめられていた。
アステリアの村を脱走した風の天才――怪盗ウェンディが、そこにいた。
「……やっぱり、あなたたちだったのね。宝物庫の隅で、ずいぶんと物騒な殺気を放っている不届き者がいると思ったら」
ウェンディはフッと妖艶に微笑み、紫の瞳のライゼン、そして冷徹に構えるアルスとサリアを順に見つめた。その表情には、追いつかれたことへの動揺など微塵もない。
「アステリアの『天才』を引き連れて、どうしてアルスがこんなところでバルドの犬なんかやっているのかしら? おほほほ、まさか金貨五百枚に目が眩んだ?」
高飛車な挑発。だが、アルスは動じず、ゆっくりと一歩前へ踏み出した。
テラスに吹き荒れる風が、アルスの前髪を激しく揺らす。その奥にある黒い瞳は、月光を反射して冷徹なまでに冴え渡っていた。背後では、ライゼンがいつでも飛びかかれるよう全身に紫の雷をバチバチと爆発させ、サリアはいつでも空間を凍らせる構えで冷気を収束させている。
静寂が支配する月下のテラスで、かつての同期たちの視線が鋭く交錯する。アルスは静かに首を横に振ると、低く、だが館の喧騒を掻き消すほどの確固たる意志を込めて告げた。
「その逆だ、ウェンディ。俺たちは伯爵の依頼なんてどうでもいい。――お前に頼みがある」




