33話 風の攻防
「――ふうん。私に、頼みがある?」
アルスの言葉を聞いたウェンディは、一瞬だけ意外そうに目を見開いた。だが、すぐに納得したように冷ややかな笑みを浮かべ、大気に鈴を転がすような高飛車な声を響かせる。
「おほほほほ! 面白い冗談ね、アルス! 捕まえて村に連れ戻すための、見え透いた嘘かしら? 魔法回路すら持たないアステリアの『お荷物』が、この私に一体何の用があるっていうの?」
ウェンディの視線が、アルスの背後で殺気を放つライゼンとサリアへと向けられる。彼女は最初から、アルスたちの目的が自分をアステリアへ連れ戻すことだと確信し、ハナから聞く耳を持っていなかった。
「サリア、あなたも相変わらずね。村に残って老人たちの言いなりになって、まだそんな泥臭い『連れ戻し』なんて退屈な任務のためにわざわざ村を出てきたの? 可哀想な人形のまままなんて。――それにライゼン、あなたまでどういう風の吹き回し? あんなに村を出たがっていたあなたが、どうしてその『お荷物』と手を組んで私をハメようとしているのかしら?」
「ハッ、勘違いすんじゃねえよウェンディ」
ライゼンが、自身の拳からバチバチと紫の電光を爆発させ、テラスの床を焦がしながら一歩前へ出た。その瞳は、かつての同期との再会に、凶悪なまでの歓喜で満ちている。
「俺たちは村のジジイどものために動いてんじゃねえ。……誰かに命令されたからじゃねえ。お前の風が必要なだけだ。それでも逃げるってんなら、その自慢の風で俺の雷を叩き落として見せろ!」
「……そういうことよ。あなたとは戦いたくなかったけれど…」
サリアもまた、静かに両手を構える。彼女の周囲の大気が急激に冷却され、テラスの床に白い霜の結晶が、生き物のように急速に広がっていく。
三人の天才が放つ圧倒的な魔力の圧力。凡者であれば立っていることすら許されないその暴風のただ中で、アルスだけは不気味なほどに静まり返っていた。
「おしゃべりはここまでよ」
ウェンディの笑顔から、一瞬で温度が消えた。
彼女が手にした碧玉を掲げた瞬間、テラス全体の「空気」が、まるで意思を持った壁のように一斉に重圧を増した。
「そっちがその気なら、アステリアの天才の『本物』の風がどんなものか――見せてあげるわ!」
ヒュッ――!
空間が激しく歪む。
ウェンディの身体が、再び月光の中に完全に溶け込むようにして消失した。光の屈折率を極限まで操作する完全隠密。
「ちぃッ! また消えやがった!」
ライゼンが叫び、全方位への無差別雷撃を展開しようと魔力を膨ませる。姿が見えないなら、このテラスごと一網打尽に焼き尽くす。それが雷使いとしてのライゼンの解答だった。
だが、それよりも早く、アルスが動いた。
(上だ。上空へ向かってらせん状に渦巻いている――!)
アルスの網膜には、科学知識というフィルターを通して、ウェンディが動いたことで生じた「大気のわずかな熱の乱れ」が、鮮明な熱の尾となって焼き付いていた。
滑空するために、彼女はテラスの縁から夜空へと跳躍したのだ。
「ライゼン、撃つな! サリア、上空の気流を凍らせろ!」
アルスの鋭い指示が飛ぶ。
サリアはその言葉を1ミリも疑うことなく、即座に魔力を解放した。
「――『絶対氷壁』!」
パリィィィン!!!
夜空に向かって、広がる巨大な氷の防壁が、一瞬にして出現した。
誰もいないはずの虚空。だが、その氷の壁が形成されたまさにその瞬間、何もない空間から「くっ……!?」というウェンディの短い驚愕の悲鳴が響き渡った。
彼女が身に纏う常時発動の風の防御がクッションとなり、氷壁への直接の衝突こそ免れたものの、進路を完全に塞がれた動揺は隠せない。姿は見えないまま、強引に風の軌道を乱されたのだ。
空中での進路を絶たれたウェンディは、一度テラスへと降り、別のルートへ移動する判断を下す。
だが、巨大な氷の障壁が出現した時点で、彼女の逃走ルートはすでに完全に絞り込まれていた。さらに、アルスには彼女が移動するたびに生じる「熱の尾」とが、その次の進路を克明に示している。姿が見えずとも、どこに降りてくるかは容易に読めた。
着地の瞬間、風のクッションを作ってテラスへと舞い降りたウェンディ。
(な、なんで……なんで私の軌道が分かったのよっ!?)
その着地の一瞬の隙を、アルスは見逃さなかった。
出力回路のないアルスの肉体が、完璧な効率性をもって駆動する。骨格筋の連動、床からの反発エネルギーの100%の伝達。音もなく、文字通り「弾丸」のような速度で、アルスはウェンディの懐へと肉薄していた。
「なんで!?」
ウェンディの身体を包む、不可視の風の防御膜。
だが、アルスは容赦なくその身の回りの風へと手を突き出した。彼の手は、超高周波の微細振動を発生させ、高密度に圧縮された空気の壁すら、バターを熱したナイフで切り裂くように強引にこじ開けた。
ガシィッ!!!
「なっ……!?」
ウェンディの手首を、アルスの手が正確に捉えた。そのまま骨格の可動域の限界を突くようにして、ウェンディの身体を強引に反転させ、その華奢な腕を背中側へと鮮やかに捻り上げる。
「痛っ……!?」
逃れられない関節のロック。魔法の起点となる手の動きを完全に封じられ、ウェンディの身体はアルスの胸元へと完全に引き寄せられ、組み伏せられていた。どれほど優れた魔法の天才であっても、発動の隙すら与えられない至近距離の肉体言語の前には、ただの無力な少女に過ぎない。
至近距離。ウェンディは屈辱と驚愕に顔を歪めながら、背後から自分を完璧に制圧しているアルスを睨みつける。
「……殺せばいいじゃない。村の老害どもに褒めてもらいなさいよ」
どこまでも「自分を捕縛しにきた」と思い込んでいるウェンディ。
しかし、アルスはそんな彼女の拘束を緩めることなく、耳元で静かに、だが重みのある声で告げた。
「だから勘違いするなと言っている、ウェンディ。俺は村の命令で動いてなどいない。連れ戻す気も毛頭ない」
「え……?」
呆然とするウェンディに対し、アルスは確固たる意志を込めて言葉を続けた。
「最初から言っている。俺はお前に頼みがあるんだ。――イグニスを止めるために、お前のその風の力が必要だ。俺に、力を貸してくれ」




