31話 風の魔法
「なっ……どこから声がした!?」
「天井か!? いや、床下か!?」
宝物庫のなかに、怒号と困惑が爆発した。賞金稼ぎたちが我先にと武器を構え、壁や天井の闇を睨みつける。先ほど「姿を現した瞬間に首をハネる」と豪語していた大剣の大男も、血走った目を激しく泳がせ、無様に剣を振り回していた。
だが、どれだけ視線を走らせようと、密閉された室内のどこにも人影などない。
部屋の隅に陣取るアルスは、冷徹なまでに周囲の「空気」の動きに意識を集中させていた。
(声の方向が特定できない。反響しているんじゃない……部屋全体の『空気そのもの』を振動させて発声しているんだ)
前世の音響工学のロジックが、ウェンディの技術の正体を即座に暴き出す。音とは空気の疎密波だ。風の適性を極限まで高めたウェンディにとって、室内のすべての空気をスピーカーに変えることなど造作もないのだろう。
「落ち着け、うろたえるな! 三重の鍵は破られていない! 奴はまだ金庫に触れてすらおらん!」
バルド伯爵の私兵隊長が、声を枯らして部下たちを怒鳴りつける。
その言葉通り、部屋の中央に鎮座する特注の巨大な鋼鉄金庫は、いまだに数十人の重装歩兵が組んだ円陣の内側で、沈黙を保っていた。
だが、サリアの冷ややかな瞳だけが、その円陣の「不自然さ」を捉えていた。
「……ねえ、アルス。おかしいわ」
「ああ」
アルスは短く応じ、体内の魔力を限界まで絞り込んで、視覚ではなく「肌の感覚」で空間をトレースする。
肌を撫でるはずのわずかな気流が、金庫の周囲だけ完全に途絶していた。それだけではない。アルスの鼓膜が、不自然な内圧の変化でツンと押し込まれるような違和感を感知する。
(空気が……あそこから急速に『吸い上げられて』いる。局所的な減圧、いや、真空状態を作っているのか!?)
「おいおい、冗談だろ……?」
ライゼンが、自身の瞳に宿る紫の電光をパチパチと弾かせながら、信じられないものを見るように呟いた。
「あいつ、まさかアステリアにいた頃より……」
次の瞬間だった。
ガチガチの鎧に身を包み、完璧な円陣を組んでいたはずの兵士たちが、何の前触れもなく、糸の切れた人形のように次々と床へ崩れ落ちた。
バタリ、バタリと、重い金属音が宝物庫に虚しく響く。
外傷は一切ない。ただ、兵士たちは白目を剥き、喉をかきむしるようにして意識を失っていく。
「な、なんだ!? 何が起きた! 呪いか!?」
傭兵たちが恐怖に悲鳴を上げる。
(酸欠だ。やっぱりな)
アルスは確信した。
ウェンディは、金庫の周囲にいる兵士たちの局所的な空間から、風の力で大気ごと「酸素」を一瞬で排出したのだ。人間は、酸素濃度ゼロの空気を一呼吸でも吸えば、脳への酸素供給が断たれて即座に失神する。前世の科学知識が、そのあまりにも理不尽な暗殺術の正体を冷酷に証明していた。
「――それでは、お目当てのものはいただくわね?」
再び、虚空から鈴を転がすような声が響く。
誰もいないはずの金庫の正面。
そこだけが、まるで真夏の陽炎のように、空間がぐにゃりと歪んだ。
「チッ、そこかあッ!」
ライゼンが痺れを切らし、右手に激しい紫の電光を迸らせて地を蹴ろうとする。だが、アルスはその肩を強引に掴んで制止した。
「待て、ライゼン。今撃っても外す。あそこにはもういない」
「あ!? 何言ってんだよアルス、現にあそこが歪んで見えたろ! 姿は見えなくても、あの歪みに向かって部屋ごと雷で焼き尽くせば当たるはずだ!」
ライゼンの主張は強者として極めて合理的だった。範囲攻撃で面を制圧すれば、不可視の敵など関係ない。だが、アルスは首を横に振った。
「違うんだ。あそこが歪んで見えるのは、あいつが移動した『直後の残像』だ。あいつは『光を曲げている』」
「光を曲げる……? 一体どういうこと?」
サリアが視線をアルスに向ける。
アルスは脳内で前世の物理的ロジックを二人に説明するように言葉を紡いだ。
光は空気の密度が変わる境界で屈折する。夏の道路に現れる「逃げ水」や「陽炎」と同じ原理だ。ウェンディは自分の周囲に、密度の異なる空気の層を高速で循環させ、自分に向かってくる光を身体の後ろへと回り込ませるように歪めて透過させている。
「つまり、俺たちの目に見えているあの陽炎は、あいつが光を曲げるために強引に大気をいじった『残骸』だ。本体はもうそこから動いている。現に見えない以上、予測で撃っても風の速度でかわされるだけだ」
「……なるほど。光の屈折率の完全制御。背景を自分の身体に回り込ませて、私たちの目には『透明』に見えるってわけね。理屈はわかるけど、マトモじゃないわね…」
サリアがアルスの意図を察し、戦慄しながらも冷徹に分析を付け足す。
「チッ……、要するに現時点じゃどこにいるかサッパリ分からねえってことじゃねえか!」
ライゼンが苛立たしげに髪を書きむしる。
そのごちゃごちゃとしたやり取りの、わずか数秒の隙の出来事だった。
ガキィィィン!!
重厚な金属音が鳴り響いた。
次の瞬間、三重の頑丈な鍵がかかっていたはずの鋼鉄金庫の扉が、まるで最初から開いていたかのように滑らかに開き、その奥に安置されていた家宝『天風の碧玉』が、文字通り「虚空へと消えた」。
「あ、あああ……我が、我が宝がァァァ!!」
バルド伯爵の悲鳴が響き渡る。
「曲者だ! 追え! 逃がすなァ!」
私兵隊長が叫ぶが、賞金稼ぎたちは完全に恐怖に呑まれ、足をすくませていた。姿の見えない、音もさせない怪物。戦うことすら、刃を交えることすら許されない圧倒的な天才の技の前に、凡者たちはただ出し抜かれるしかなかった。
「おい、アルス! 本当にどうすんだよ! 碧玉が消えたぞ、もう逃げられてるじゃねえか!」
ライゼンが、焦れったそうにアルスに詰め寄る。
「だから焦るなと言っている。あれだけの規模で光を曲げる大気操作をやってるんだ。質量を持った人間が動き回っている以上、物理法則からは絶対に逃れられない」
アルスは、消え去った碧玉の残光を見つめながら、不敵に口角を上げた。
「大気を強引にいじれば、必ず『ノイズ』が出る。見えないなら、別の方法で足跡を追うだけだ。行くぞ」
「その理屈で本当にあいつに追いつけるんだな? 」
ライゼンは疑念の目でアルスを睨みつけた。
アルスは誰も動けない宝物庫から、確信に満ちた最初の第一歩を踏み出した。




