第19話 不落の聖域、『アジール』
地平線の彼方に、その歪な影が見えたとき、俺は思わず足を止めていた。
「……おいおい、冗談だろ。あれがただの集落だって言うのかよ」
隣を歩くライゼンが、乾いた声を漏らしながら包帯の隙間から目を剥いている。
赤茶けた荒野の果て。蜃気楼のように揺らめく空間の向こうにそびえ立っていたのは、人間の手によって築かれたとは到底思えない、圧倒的な容積の構造物だった。
天を衝くような巨岩の山。いや、それは山そのものを強引にくり抜き、あるいは地面から直接岩の土台を生やしたかのような、異形の『城』だ。外壁は荒々しい地層の模様をそのまま残し、いかなる刃も、いかなる爆破魔法も受け付けないと言わんばかりの質量感で大地に根を張っている。
これこそが、国境沿いの無法地帯に突如として現れたという、不落の聖域――『アジール』。
「すごい……。本当に、全部岩だけでできているのね」
サリアが感嘆の息を吐きながら、額の汗を拭った。
城の麓に近づくとそこには、岩壁と同化したかのように、じっと佇む一人の大男の姿があった。
見上げるほどの巨躯、丸太のような腕、そして大地そのものを体現したかのような圧倒的な質量感。かつてアステリアの村の同期であり、岩の魔法の天才と呼ばれた男――ガウルだった。
ガウルは地響きのような足音を立ててこちらへ歩み寄ると、その無骨な顔に驚きと懐かしさを滲ませた。
「お前たちは……なんでこんなところに?」
そのゆっくりとした、だが力強い声が荒野に響く。
俺たちはこれまでの事情――イグニスの組織の脅威、そして大聖都での死闘を経て、彼を頼ってここへ来たことを簡潔に話した。ガウルは腕を組み、深く頷いた。
「わかった、とりあえず中に入れ。今日は遅い、明日また話をしよう」
そう言うと、ガウルが巨大な岩の手を外壁に触れさせた。轟音と共に地面が震え、堅牢な巨岩の城門が内側へと滑らかに開き、俺たちはその内部へと案内される。
城内は、外壁からは想像もつかないほどに空間が拡張されており、まるで一つの巨大な地下都市のようになっていた。滑らかに削り出された岩の天井には微光を放つ鉱石が埋め込まれ、無数の通路が網の目のように行き交っている。
国家の統治が及ばない国境の荒野だ。本来なら野盗が跳梁跋扈し、骨と砂しかないはずの場所に、驚くほどの『人間』が集まっていた。
ボロを纏った難民。手足を失った元兵士。そして――その雑雑とした群衆の中に、俺は見覚えのある民族衣装に身を包むボロボロの民を見つけた。
それは紛れもなく、アステリアの民だった。
「なぜ、アステリアの民がここにいるんだ?」
俺の疑問に、隣を歩くガウルが悲痛な面持ちで視線を落とした。
「アルス……お前は知らなかったのか……。アステリアは覚醒の果実で壊れてしまった人々を追放していたんだ。彼らはお前以上に才能に恵まれなかった…彼らが通った道は地獄そのものだっただろう」
「アルス、お前周りとか見えてなさそうだもんな」
ライゼンが皮肉げに、しかしどこか重苦しい口調で付け加える。
アルスは驚愕した。あの村の儀式において、果実に適応しなかった者は皆、その負荷で死亡したと教えられていた。だが、それはすべて嘘だったのか。村の欺瞞と、切り捨てられた者たちの存在を突きつけられ、俺の脳内に冷たい衝撃が走る。
そんな俺の内心の動揺を置き去りにするように、城内を進むにつれて、外見の無骨さからは想像もつかないほどの熱気が俺たちの肌を刺した。岩をくり抜いて作られた通路の両脇には即席の露店が並び、不毛の荒野とは思えないほどに食料や水が行き交っている。
「へえ、どこの国にも属さない割には、ずいぶんと統率が取れてるじゃないか。もっと死にかけの奴らが転がってるかと思ったがね」
ライゼンが意外そうに周囲を見回す。言う通りだ。ここにいる連中の目は死んでいない。むしろ、絶対的な守護者に庇護されているという確信に満ちた、奇妙な活気に溢れていた。
俺は冷徹に、すれ違う人々の歩き方や体つきを観察する。飢餓で骨が浮き出ている者は少なくないが、皆がこの城の一部として役割を与えられているようだ。
「――ん? おい、嘘だろ……。お前、アルス……か?」
雑踏の向こうから、聞き覚えのある、だが少し掠れた声が俺の鼓膜を叩いた。
足を止め、視線を向ける。そこにいたのは、粗末な麻の服を着て、荷車から大きな水樽を卸そうとしていた一人の若い男だった。
日に焼けた顔。右の頬にある大きな傷。
俺の脳内にあるアステリアの村の記憶が、瞬時にその輪郭を検索し、名前を弾き出す。
「……ルカ、か?」
男――ルカは、持っていた水樽をごとりと地面に落とした。その目が信じられないものを見たかのように見開かれ、小刻みに震え始める。
「本当にアルスなのか!? なんでお前がここに……。それに、サリアまで!」
ルカは俺たちに駆け寄ろうとして、俺の少し後ろに立つライゼンの姿を認めると、恐怖でその身体をビクッと硬直させた。アステリアの村で『神童』として君臨していたライゼンの顔を、同じ村の人間が忘れるはずがない。
「ラ、ライゼン様まで……。なんで、アステリアの『天才』たちが、こんな落ちこぼれの墓場にいるんだ……?」
彼はルカ。俺たちの1つ下の後輩であり、あの儀式の日、果実により覚醒できずに死んだとばかり思っていた友人だった。
ルカの口から漏れたのは、懐かしさではなく、困惑と底知れない怯えの色だった。
俺はルカの視線を受け止めながら、自分の傷だらけの手を軽く握り直す。そんな俺たちの様子を見て、ガウルがルカの肩にぽんと大きな手を置いた。
「ルカ、彼らを客室まで案内してくれ、私はまた、見回りに戻る」
そう言うとガウルは踵を返し、再び通路の奥へと去っていった。
残された俺たちは、未だに硬直しているルカに向けて、まずは安心させるように話を切り出した。俺が「ルカ、気にするな。今のライゼンは俺たちの仲間だ。大丈夫だ」と言い含めると、ライゼンもバツが悪そうにそっぽを向く。サリアの優しい微笑みも手伝って、ようやく緊張を解いたルカは、ぽつりぽつりと今までの壮絶な過去を語り出した。
「あの日……果実を食べた後、俺は能力に覚醒できなかった。それどころか、腕から制御できない魔力がボロボロと漏れ出て、肉体を内側から焼いて大怪我を負ったんだ。その後、村の幹部連中から『治療のため』と理由をつけられて、夜中に馬車に乗せられてそのまま村の外に出された。実質的な間引きだったんだと思う」
ルカは傷だらけの右腕を擦りながら、自嘲気味に笑う。
「それからは地獄だったよ。魔法も使えない、体も動かない無能だから、どこの街に行ってもまともな職なんてない。行き倒れになりかけながら、あちこちの街で日雇いの奴隷同然の仕事を繰り返して、何とか命だけを生き繋いでいたんだ。そんなある日、この荒野に『アジール』っていう城の噂を聞きつけて、這うようにしてここまで辿り着いて……ガウル様に助けてもらったんだよ」
そこまでは、持たざる者が辿る悲惨な転落の物語だった。だが、ルカの次の言葉が、俺の思考を完全にフリーズさせた。
「でも、ここに来てから不思議なことが起きたんだ。この城にいると、不思議と体が軽くなってな……。ガウル様の近くにいるうちに、その強力な魔力の影響を受けたのか、俺の壊れていた腕の奥で、わずかに魔法が覚醒しだしたんだ。ほら……」
ルカが手のひらを上に向けると、その指先から、頼りないが確かな『風』の渦が小さく巻き起こった。
「俺だけじゃないんだ。アステリア以外の、生まれつき回路がないって思ってた他の難民の人間たちも、この城で暮らすうちに少しずつ魔法に目覚め始めてるんだよ」
「馬鹿な!! アステリア以外で魔法が覚醒するなんて。そんなことになったら、世界中で魔法使いが増えちまうぜ!?」
ライゼンがその光景に驚愕し、声を荒らげる。生まれ持った『回路』という絶対的な血統の優位性が、この城の環境だけで覆ろうとしているのだ。天才としての世界観を揺るがされたライゼンの横で、俺はルカの指先で踊る風を冷徹に見つめながら、この世界の『理』が根底から崩壊し始めている予兆を肌で感じ取っていた。




