14話 泥濘(でいねい)の終止符
大聖堂を包む沈黙の中で、俺たちの荒い呼吸だけが重く響いていた。
砕け散ったステンドグラスの隙間から、冷徹な月光が床の血溜まりを照らし出す。魔石の熱狂が去った俺の身体は、鉛を流し込まれたように重く、一呼吸置くたびに全身の焼けるような激痛が脳髄を鋭く抉った。
対面のライゼンも酷い有様だった。
神の如き威光を放っていた黄金の衣服はボロボロに引き裂かれ、生身に戻った両腕は電流の負荷で紫色に腫れ上がっている。あいつは膝をガタガタと震わせながら、辛うじてその場に立っていた。
「……あり、えない……」
ライゼンが血の混じった唾を吐き出し、掠れた声で呪詛のようにつぶやいた。
「俺は天才だ……アステリアの神童なんだぞ……! なんでお前みたいな、回路もないゴミとこんな泥仕合を……!」
「……まだ、そんな寝言を言ってるのか」
俺は残りの力を振り絞り、ライゼンへ向けて地を蹴った。
だが、天才はただでは倒れない。ライゼンは俺の突撃の軌道を完全に読み切り、その狂った瞳に最後の執念を燃え上がらせた。
「甘いんだよお前は……! 『雷天絶界』!!」
ライゼンの叫びと同時に、あいつの周囲数メートルの空間すべてが、眩い雷の檻へと変貌していく。触れれば生身の肉体など一瞬で消し飛ぶ、絶対不可侵の全方位放電。
(やられた)
俺の脳が、極限状態で弾き出した答えはそれだった。弱り切ったライゼンの技など強引に受けきれる、肉を切らせて骨を断てると、甘く見積もっていた。まさか、こんな大技を残しているとは・・・、加速した体はもう止まれない
しかし。
次に前へ踏み出すはずだった俺の足が、ほんの数瞬、遅れていた。
『もし戦って、少しでも分が悪いって感じたら、意地を張らずに絶対に逃げると約束して』
『信じて待ってる。……だから、絶対に生きて帰ってきてね。アルス』
脳裏に過ったのは、宿を出る前のサリアとの会話だった。
生きて帰る――その約束が胸を突き刺し、俺の心に一瞬の迷いが生じた。躊躇なく死線を踏み越えようとしていた俺の肉体が、生存本能によって急ブレーキをかけたのだ。
だが、この肉体の「迷い」こそが、奇跡的なフェイントとなった。
「なっ……!?」
ライゼンが驚愕に目を見開く。あいつは、俺がいつも通り「捨て身で真っ直ぐ突っ込んでくる」と確信し、そのタイミングに合わせて雷の檻を展開していた。しかし、俺の足が一瞬遅れたことで、放たれた雷光の津波は俺の目の前の空間を無意味に焼き尽くし、完全に空を切った。
ライゼンの最大威力のカウンターをかわしきった。
だが、突撃からの急停止は、ただでさえボロボロだった俺の身体に凄まじい負荷を与えた。魔力の強化も、絶縁の防御もすべて剥がれ落ち、俺の肉体は完全にただの生身へと戻る。
「これで、終わりだ……!」
反動で引き千切れそうな筋肉を執念だけで動かし、俺は無防備になったライゼンの懐へと飛び込んだ。
黒炎もない、魔族の意識もない。これは、俺がこの世界で泥を舐めながら、一歩ずつ積み上げてきた、ただの無能の拳だ。
その右拳を、ライゼンの胸のど真ん中へ向けて真っ直ぐに振り抜いた。
ドガァッ!!!
肉と骨がぶつかり合う鈍い音が大聖堂に響き渡る。
俺の一撃はライゼンの胸元へクリーンヒットし、あいつの身体は糸が切れた人形のように、石畳の床へと崩れ落ちた。
ライゼンの大技の残光が完全に消え去り、大聖堂に本当の静寂が戻る。
ライゼンは仰向けに倒れたまま、もはや立ち上がる力すら残っていなかった。そして、全ての力を使い果たした俺もまた、その場に力なくへたり込んだ。
「……ハァ、ハァ……俺の、勝ちだ……」
口の中に広がる血の味を感じながら、俺は胸の奥から湧き上がる圧倒的な充実感に満たされていた。
成人の儀で、ああも惨めに敗北し、ずっと俺の前に立ち塞がっていた「才能」という名の壁。それを今、泥臭い努力の果てに、この手で完全に打ち破ったのだ。脳裏を支配するのは、かつてないほどの満足感だった。
不思議と、ライゼンを殺そうという気は起きなかった。もう、その必要がなかった。
「おい、アルス……」
床に倒れたまま、ライゼンが虚ろな目で天井を見つめ、掠れた声で呟いた。
「なんで、殺さない……。」
「……お前を殺したら、あいつが泣く」
俺は荒い息を吐きながら、静かに答えた。
「村に戻れ、ライゼン。神様ごっこは、もう終わりだ」
ライゼンは自嘲気味に、力なく笑った。
「……ふん、相変わらず……お前は、むかつく奴だな……」
その時、大聖堂の分厚い扉が勢いよく開き、激しい足音がこちらへ駆けてくるのが聞こえた。
「――アルスッ!!」
白亜の門をくぐり、必死な形相で大通りを走ってきたのだろう、息を切らしたサリアがそこに立っていた。
彼女の姿が視界に入った瞬間、張り詰めていた俺の緊張の糸が、完全に切れた。
(あぁ……約束、守ったぞ……)
サリアがこちらへ駆け寄ってくるのを薄れゆく視界で見つめながら、俺は深い闇の中へと意識を失っていった。




